稲葉地城
稲葉地城 <愛知県名古屋市中村区城屋敷4-10>(住所をクリックするとMapfanにリンクします。)稲葉地城跡は現在は神明社となっている。遺構はない。 この城は信秀様の弟・津田信光の築城によるとされている。信光は、信長様の伯父にあたる方じゃな。また、小豆坂七本槍の一人でもある。なんでも、織田家では嫡流のお家以外は織田を名乗ることを許されなかったため、信光は織田の前の古い名字である津田姓を名乗ったとも言われておるようだが、シロートは「え~っ、信秀様にも信長様にも、織田を名乗る弟たちなんていっぱいいるじゃ~ん?」とか思っちゃうんだけど・・・よくわからん。独立した一家系を与えられた場合に、って意味なのかな?あるいは、織田家は信秀様以降爆発的な飛躍を遂げたから、尾張の守護代のイチ奉行であった頃までは、そんなしきたりがあったってことなのか?ただ、本家以外の織田家は、書面では姓を織田ではなく津田と表記することが多いらしい。織田さんちは主家が入れ替わってるから、あんまりよくわかってないみたいだけど・・・伯父様の城ではあるが、信長様もこの城に来ておられる。それが、海津の合戦。天文12年(1553)清州勢に奪われた那古野城西方の深田城と松葉城奪回のためこの城に入り、信光と共に稲葉地城の北で合戦。めでたく奪回に成功したと。深田城・松葉城は現・海部郡にあった城。天文24年(1555)4月、信光は清州織田家より乞われ清州城に入るが、これは既に信長様と示しあわせていた事であり、信光は守護代・織田信友を切腹へと追い込む。この功により信光は那古野城を得る。清州織田家からは褒章として守護代待遇を提示されていたらしい。同年11月、信光、家臣に殺害される。が、これは実は信長様の謀略とする説もある。信光が清州城に入った際、曲がりなりにも一旦は織田信友へ従うという起請文を書いたのに、それを裏切ったんだから、天罰だよ~なんて噂も当時はあったらしい。津田氏の三代・与三郎は桶狭間で戦死、四代・小藤次も本能寺で討ち死にし、以後は廃城となった。「稲葉地城後」の石碑の側面には「織田信長伯父津田豊後守居城」とある。 夕方だったせいもあるかもしれないけど、誰もいない。閑静な住宅街の中にある神社に一人たたずんで、織田家のゴタゴタの頃の喧騒を、ただぼんやりと想像する。そんな物好きなジジイがいたことを、知っていたのは神馬だけ。 ※「武将都市ナゴヤ(5)」の途中へ続きます。にほんブログ村