要害山城(2) 主郭部の遺構
土塁に沿って郭を時計回りに歩く。 ↑この写真の左手前は横矢がかかっており、前方には北の虎口が見える↓。 北の虎口を郭内部の正面から見たところ↓。 よくまあ、綺麗に残ってるもんだな~。天満神社から上がってきた道が一部外側の土塁を崩してるようではあるけど、それ以外はほぼ元の形をとどめているらしい。それに、タイミングもよかったみたい左の手前にこんもりしてるのも、刈り草の山だからね。これが元気に繁茂してる時だったら、おそらく遺構を確認するどころの話じゃなかっただろう。で、今度はここから出てみる↓。 確かこれが、真下を撮ったところだったと思う。たしかに虎口です。この辺からは、確か東方向にだったと思うけどかすかに道のようなものがあった↓。まあ、どこへ通じるかわからないからちょっと覗いただけにしたけど。 主郭部は2重の土塁になっていて、間が空堀になってるんだけど、虎口の東側はあまり刈り込まれてなくてこのままでは通りにくそうだったので↓、 一旦郭内部へ戻る。北の虎口から内部を見たところ↓。 ・・・結構斜めってるなあ。礎石の類がないか、それなりに探したはずだけど、写真がないから見つからなかったんだろうな。まあ、城っつっても、ここが神辺合戦の最中に築かれたものであれば「陣」だしな。掘立柱程度の簡素な建物をいくつか置いたってカンジなんだろうな。ここ自体のスペースは結構広い。それで、東側の土塁に沿って南下し始めたら土塁が低くなってるところがあったので、空堀に降りてみた↓。・・・が、後から縄張図を見てよく考えてみると、もしかしてこの辺が南東の虎口だったのかもしれない つーか、ぱっきりそれとわかる南東の虎口を見た覚えがないんだよなあ(笑)。この南東側の斜面には5段に分かれる帯郭があるという。そちらの方へ行かれる道があるのかはわかりませぬが。ここからは、空堀の中を歩いてみる↓。 改変が加えられてないといっても、土塁そのものが少し低くなっていたり、空堀が埋まっているのかそんなに高くない場所もある。が、大体この位の高さが本来の切岸なんじゃないかと思われる。空堀はぐるっと一周できるはずなんだけど、この先はヤブや道があまり良くなかった関係で、確か引き返してきたような気がする。(相当うろ覚えですいません)郭内部、推定南東虎口付近から南側を見たところ↓。 右奥は折れて、横矢がかかってるのがわかりますか?もうすぐ16:00。当初の予定では、この後お隣の山王山城へ行くはずだった。が、ここがこんなに綺麗に残ってるとは思わなかったし、要害山に登る前にすっぱり山王山城は諦めてたから、その分ゆっくり見られてよかったなあ人も来なかったし。それに、下草が刈られているのといないのとでは随分違う。ツイてたよなあ・・・しかし、ツイてない事がひとつだけあった。 これは、南の方角を撮ったものです。過去のシリーズなどを覚えている方はおわかりかと思いますが、私は現場でその時その時のお目当ての武将様が見たであろう光景を、妄想力全開で眺めるのをとても楽しみにしている。神辺城では、山名軍に混じってこの要害山が見えた。距離感などがわかって、とてもよかった。今度は要害山から平賀軍に混じって神辺城を遠くに眺めたかったのに、完全に木に遮られてちいとも見えやしねえ!も~っ、神辺城を眺めるのが一番の目的といってもいいくらいだったのにい~!!は~あ、見えないものはしょうがないッス。後は帰るだけだけど、10時頃に神辺城9郭でおやつパンを食べただけだったから、何か食べてこう・・・郭内部にはあいにく腰掛けられるような石とかもなかったので、おにぎりを頬張りながら郭内をウロウロ歩いて最後の余韻を楽しむ。中央付近には、何やら石碑も建つ↓。よく読めないけど、「要害龍王」ってあるのかな? しかし、この写真・・・右手の矢印のところに写ってるのって、虎口だよな。やっぱ、空堀に降りたところが南東の虎口だったのか~!今写真を見てると、「気づけよ」って自分にツッコミ入れたくなりますが、左手の土塁はだいぶぼんやりした感じになってたしな・・・まっ、済んだことはしょーがないッスんで、この辺が北西の空堀だったっけかな~↓。2重の土塁がよくわかる。 西側の斜面は比較的刈られていたので、竪堀もはっきり確認できる↓。 西側の眺め↓。 ハア、西じゃなくて南が見たかったんだけどな~。でも、竪堀もはっきり写ってるな要害山の標高は94m。山麓の神辺旭高校前の道路あたりで海抜20mだから、比高は70mちょいだけど、下が平野だとやっぱり見晴らしはいい。当時はもちろん南側の斜面の木はなかっただろうから、おそらく要害山からも神辺城のある黄葉山はよく見えただろう。あちらの方が標高は高いし(←132m)。『日本城郭大系13 広島・岡山』によると、要害山の東麓には「屋敷」といわれる居館跡があるんだそうな。ただ、神辺合戦の最中に敵地で山麓に居館を置くなんてことは考えにくいので、きっとそれは山王山城に付随する施設なんじゃないだろうか。で、その後に南麓に大内・毛利軍が布陣したといわれる「秋丸砦」があると文章が続いてるけど、地図を見ると南麓の神辺旭高校の敷地のすぐそばに「古城神社」なんてものがあるので、その辺のことを指してるのかな、と思った。まあ、それにしても最後に平賀氏単独での持久戦に切り替えるなんて、やっぱり思い切った決断だったよな~って思う。平賀軍は800ともいうけど、背後から援軍が来て挟み撃ちにされたらどうするんだ?実際、目黒秋光のエピソードもある訳だし。ホントに目黒氏の応援てあったのかな~。墓が神辺にあるっていっても、寺の縁起もどうにも、って箇所もあるし・・・( 「福山編(22)」 「23」もご参照ください)て、いい加減しつこいよな、私もちょうどおにぎりを食べ終わる頃、人が上がってきた。ので、幸せな萌えタイムはおしまい。普通に見られるのは山頂の主郭部だけだったけど、よかったなあ、この城。来てよかった時期によっては、下草がいっぱいで遺構の確認もしづらいかもしれませんが、何しろ綺麗に残ってるし、天満神社から簡単に上がれるし、おススメです。神辺城を見るのであれば、ぜひセットで見てってほしいお城ですね。その節は、超マイナーですが平賀の御曹司・隆宗様のことも少しでも思い浮かべていただければ、こんなに嬉しいことはござりませぬ・・・※「福山編(24)」へ続きます。にほんブログ村