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政治心理学者を本業に持つ人間がなぜ、武術の道場を設立したのか?
…と疑問に思っている方も多くいらっしゃるようです。 勿論子供の頃から空手などの武道をやってきて、甲野善紀先生 や光岡英捻先生 の影響で古武術、中国武術の術理を研究し、武の妙技が見えてきたという理由も大きくあります。 ですが、それ以上に武術の普及そのものが、日本の落ち込んだ道徳観念を復活させる礎になると考えたからです。 さて。 「武道は人の心を育てる」という言葉をよく耳にします。 辛い稽古を継続することによって諦めない心を学んだり、自分が痛みを知ることによって相手の痛みを分かるようになるといったものでしょう。 もちろん、それはとても大切な学びです。 しかし、学ぶことがそういった精神論だけならば、何も武道でなくても学び得ることができます。 館長である私は「武道」という言葉は武の本質を浅くしてしまうのではないかと考えます。 だから私は自分の扱う武を「武道」ではなく、「武術」と呼んでいます。 武術の技、術理は本来、無駄な力を除いた体の使い方で以って相手を制することにあります。 例えば、力任せに拳に全体重を乗せた殴り方では、相手に重みを感じさせることはできても、臓器にまで響くように効かせることはできません。 それは相手が無意識的に殴られることに反発して筋肉を固め、力と力がぶつかり合うようにして、ある程度打撃の威力を相殺しているからなのです。 たしかにベンチプレス150キロ近く上げるほどの尋常ではない筋力を以ってすれば、どんな滑稽な殴り方をしても臓器まで威力は届くでしょうが、それは少しでも稽古を怠って筋力が低下すれば相手にダメージを与えることはできません。 本来の古の武術では、相手を殴るにしてもあえて拳に力を入れません。 緩みきった力の入ってない拳で触れられるものですから、相手は無意識的に反発を起こさず、筋肉を固めません。 相手の緩んだ筋肉にスッとめり込んだ瞬間に、一瞬だけ力を加える。 そうすることで、弱い力でも相手の筋肉を掻い潜り、臓器にまで打撃を浸透させることができるのです。 即ち「力み」とは攻撃しようとする意志であり、「緩み」とは相手を寛容する意志です。 攻撃する意志を排除し、相手を寛容することで結果として相手を制することができる。 これは実生活でも同じことが言えます。 相手に対して寛容な意志で以って接していれば信頼が生まれ、結果として相手を上手に動かすことできます。 これが私のいう「術即道」の概念です。 また、その反対も然りで、実生活で得た考え方を武術の理として活かすように研究を重ねることが今後とも必要であり、それが「道即理」の概念です。 このように武術の悟りは実生活の悟りであり、武術の成功法則は人生の成功法則であります。 言い換えてみれば武術とは体を通して開悟を促す禅であるともいえます。 その理由から私は流派名を「武禅館 」と名付けました。 そして宗教に対する嫌悪感が募り、伝統宗教から悟りを学ぶ慣習が失われた現代日本では、武術を通して悟りを開く楽しさを伝えることが、この国の道徳心を高めることに最も貢献できることだと思います。 だから私は武禅館 を全国各地に支部を置くほどに成長させたいと思っております。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年12月09日 13時40分05秒
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