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テーマ:旅のあれこれ(10280)
カテゴリ:旅先にて
■高田屋嘉兵衛像をめぐって
司馬遼太郎の「街道をゆく15 北海道の諸道(朝日文芸文庫)の中に次のような文がある。 「夜、街へ出て宝来町で夕食をとった。その店の軒をくぐるとき、ふとふりかえると、坂ののぼり傾斜を背にして~つまりは海に向かって~銅像が立っているのに気づいた。 食事を終えて出るとき、銅像の高い基壇に近づいて、下のほうの銅の文字をみると、画高田屋嘉兵衛とあった」(上掲書 P37 初出は1979年1月~7月 「週刊朝日」に連載) 北海道ツーリング中の6月15日、立待岬から函館港に向かう途中、大きい銅像の後ろ姿が目に入ったのでバイクを停めた。最初は誰の銅像だかわからなかった。司馬遼太郎が書いているように、自分も近づいてみて「高田屋嘉兵衛」の像だと気づいた。 「高田屋嘉兵衛像」 (江戸時代後期、函館を拠点に択捉航路を開くなど北洋漁業の基礎を築いた先駆者) 修学旅行のバスが何台か、徐行しながら銅像の脇を通り過ぎて行った。バスの中では、ガイドさんが一日の行程に疲れた生徒たちに、高田屋嘉兵衛のことを語っているのだろう。 司馬遼太郎は上記の「街道をゆく」の中で、イタリアの都市空間は銅像を中心にひきしまっているが、日本はまわりの空間が銅像のためにつくられていないと述べている。そして、日本の銅像は「バケそこなったナマハゲが雨露にさらされているといった感じ」とまで書いている。 しかし、そのあとに次のように続けている。 「しかし坂の途中にあるせいか、この銅像はさほどでもない。あるいは高田屋嘉兵衛(1769-1827)というともすれば忘れがちな人物へのいたわりが、私の中に好感を生んだのかも知れない」 なお、司馬遼太郎は、高田屋嘉兵衛を主人公にした小説「菜の花の沖」を1982年に発表している。この時の函館での銅像との出逢いが、小説発想の原点だったのだろうか。 松山善三・高峰秀子夫妻は司馬遼太郎と親交があった。ある時、松山夫妻は司馬とハワイに行く。しかし、折角ハワイに来ても、司馬は水泳もしないし太陽にも弱い。そこで松山は浜辺に海辺の木の下にビーチチェアを置き司馬に座らせて一人の時間をつくってやった。 2時間後、松山夫妻は買い物から帰ってきた。その時に司馬はこう言ったという。「小説が一本できちゃった。題名まで決めたよ『菜の花の沖』っていうんだ」と。 この話は、高峰が自身のエッセイ集「おいしい人間(文春文庫)」に書いている。また「一号線を北上せよ(沢木耕太郎 講談社文庫)」の巻末所収の、沢木耕太郎との対談の中でも、このエピソードを話している。 膨大な著作を残した司馬遼太郎らしいエピソードである・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011/07/11 08:04:05 AM
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