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カテゴリ:最近読んだ本
生誕100年記念の新刊 先日,書店の文庫コーナーを見て廻っていたら「小説に書けなかった自伝」(新田次郎:新潮文庫 H24.6.1発行)を見つけた。冊数は少なかったが一応平積みで置いてあった。 もともと旅や山の本が好きなので,「山岳小説」の先駆者(自身はそう呼ばれることを嫌っていたようだ)的な存在である新田次郎の小説はかなり読んだ時期がある。しかし,自伝は読んだことがなかった。早速買って読み始めると,結構面白くて数日で読み終えた。 気象庁の測器課に勤める役人(公務員)だった藤原寛人が,作家新田次郎になるまでのあゆみが本人自身の手でつづられている。 興味を引かれたのは,昭和31(1956)年に「強力伝」で直木賞を受賞してからも10年間気象庁に勤め,公務員と作家の両方をこなしていたということである。そして,最後の3年間は測器課長として,富士山レーダーの建設の陣頭指揮をしている。この時の自分自身を主人公にした小説が「富士山頂」(文芸春秋社~1967年12月)である。 昼は多忙な役所の仕事をこなし,帰宅すると,夜7時のテレビニュースを見たら書斎にこもり執筆していたという。そして,次々に舞い込む執筆依頼に応じて原稿用紙を埋めていき,昭和34(1959)年の場合を例にとると,100枚の小説4本,連載小説2本,短編小説や随筆も含めると月平均120枚ほど書いていたという。 「小説に書けなかった自伝」 月に120枚というのがどんな分量なのかは,実感として分からない。しかし,作家新田次郎がかなりエネルギッシュな人だったということは想像できる。それは,写真の風貌からもうかがえるし,「小説に書けなかった自伝」の中の文章からも伝わってくる。 公務員をしながら小説で原稿料を得るということは,今なら「公務員の兼業禁止」の規定にひっかかるだろう。当時も,役所内で皮肉ややっかみがあったことを,新田はこの本の中で述べている。 そんな中で課長に昇進し,当時としては世界最大の気象観測レーダー建設の中心となり困難な仕事をやり遂げる。やはりこれも,並みの人間ではできないことだ。そして,それをまた小説「富士山頂」に書くというしたたかさもすごい。 今から30年ほど前の夏,富士山に登った。その時は「富士山頂」を読み終えたあとだった。剣が峰に立つ白いレーダードームが,藤原寛人と新田次郎の艱難辛苦をしのばせてくれた。その後,気象衛星の登場により,富士山レーダーはその役割を終えた。 ところで,なぜ今頃この本がでたのかと思っていたら,帯の下に方に書いてあった「新田次郎生誕100年新刊」という文字で納得した。 新田次郎こと藤原寛人は,明治から大正に年号が変わった1912年に生まれている。そして,昭和41(1966)年3月に気象庁を退職してから作家新田次郎に専念し,昭和55(1980)年2月,心筋梗塞で急逝した。 68歳,惜しまれる死だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012/06/24 06:30:21 PM
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