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テーマ:プロ野球全般。(13397)
カテゴリ:最近思うこと
1年生のK Kコンビのその後 1983年、全国高校野球選手権(夏の甲子園)の準決勝は、史上初の夏・春・夏の3連覇をめざす徳島池田高校と大阪PL学園の対戦だった。 蔦文也監督率いる池田高校は「やまびこ打線」と呼ばれる強力打線を擁していた。それに対してPL学園は、1年生エース桑田真澄、1年生4番打者清原和博で勝ち上がった。この試合は7-0でPL学園が勝ち、勢いに乗ったPLは決勝で横浜商を3-0で破って優勝した。 この夏の大会以降PL学園は甲子園に5回出場した。これは同一学年が出場可能な最多回数である。そして、優勝2回、準優勝は2回。桑田は20勝、清原は本塁打13本と活躍した。 甲子園を沸かせたKKコンビは、1985年のドラフト会議で明暗を分けた。巨人が指名したのは、早稲田大学受験を公言し他球団から敬遠されていた桑田だった。巨人入りを熱望していた清原は外された。ドラフト会議後の清原の涙は多くの人々の記憶に残っている。 このときのことを、当時のPL学園野球部監督の中村順司は次のようにふり返っている。 ドラフト以降、2人は不仲だと報じられることもありましたが、私はそうは思いません。桑田の引退後、ケガから復帰した清原が桑田に打撃投手を依頼したことがありました。この練習のためだけに桑田は3ヶ月かけて体をつくった。清原は「ありがとう」と声をかけ、桑田は涙を流しました。2人にはずっと特別な絆があるんです。 桑田は大阪府八尾市出身。PL学園卒業後巨人に入団して20年間プレーした。通算成績は173勝141敗14セーブ。その後アメリカ大リーグに挑戦し、ピッツバーグ・パイレーツで1年間プレーした。成績は19試合に登板し0勝1敗3ホールド。2008年に引退。 2009年には早稲田大学のスポーツ科学研究科修士課程に入学した。「『野球道』の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究」という修士論文で最優秀論文賞を受賞した。現在は野球解説者でかつ野球指導者。東京大学野球部の特別指導者を務めたこともある。 桑田はスポーツ指導理論に関心が深く、体罰による指導にも厳しい反対意見を持っている。喫煙問題でも、現役時代から移動車や練習場の分煙化を主張して実現させてきた。野球やスポーツに関する著書もあり、学究的でストイックな生き方というイメージが強い。 清原は大阪府岸和田市出身で、6球団から1位指名を受け西武に入団し11年在籍した。1997年から巨人で9年、その後オリックスで2年プレーして2008年に引退した。 打撃成績で目立つタイトルをとっていないので「無冠の帝王」と呼ばれる。通算安打は2,122本と2,000本を超えた。しかし、通算死球196、通算三振数1955というプロ野球記録を持っている。ここに勝ち気で闘志を全面に出す清原らしさが出ているように思える。 清原は巨人時代の終りごろから、ケガや故障も多く成績不振が続いた。巨人という紳士球団的なチームカラーに反する清原のふるまいに対するパッシングもあり、悪役のイメージが強くなった。ピアスやタトゥーなどもマイナスのイメージで語られる要素になっている。 このように見ていくと、KKコンビの2人からは対照的な人間像が浮かび上がるようだ。 ところで、今年の夏はPL学園の名を聞かなかった。実はPL学園は部員間の暴力傷害事件で8月中旬まで公式戦出場停止の処分を受けていたのだ。KK時代にも暴力や体罰はあったろう。そんな体育会的風土から、2人の対照的な気質や生き方が培われたのではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013/09/12 02:04:24 AM
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