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カテゴリ:つれづれなる思い
随分とご無沙汰してしまいました。
二週間の山籠もりから戻ってきました。 まずは、和歌山紀美野町のぽつんと一軒家のような民家に泊めていただきました。 周りに家もなく、人もいないので、鍵をかける必要がないそうです。 こちらでは、主に稽古中心、怪我の療養といったところでしょうか。 極力食べ物を減らし、テレビやスマホの音を聞かず、静かに大自然の気を取り込むのが目的です。 その次に向かったのは、長野の飯綱高原と戸隠山。 こちらでの目的は、高野山の阿闍梨についてお勤めをさせていただくことと、修験道の戸隠山の仙気と霊気を取り入れること。 ふわふわの土をさわり、野草と会話したり、施設の若者たちによって作られる完全無農薬の野菜や玄米を頂くことも自然との交流のひとつ。この土地でしかできないことですので、楽しみの一つです。 マスクの存在を忘れ、自然体で過ごすことができる数少ない施設でもあり、多くの学びの場でもあります。 旅の伴侶。今回共に旅をしたのは、「武術稀人列伝 神技の系譜」甲野善紀先生の著書です。 武人の修行方法についても書かれており、大変興味深い。 例えば、諸国修行をした白井亨(剣術の達人。)の悩みに対し、禅の立場から剣術を研究していたという寺田(師)は、言う。 「あなたは、幼い時から二十余年の間、間違った修行を重ね、間違った理論を学び、妄念が胸に満ち、邪念が体中に凝り固まっている。まずは、この邪念を取り除くことを心がけなければならない」 「酒と肉食を断ち、一日に水を浴びること百回」という灌水の法を勧める。しかし、このような荒行は、体質にもよるため、合わない場合は、病に倒れてしまう。 そして、灌水の法から白隠禅師の練丹の法に切り替えて、臍下丹田が充実し、腹が鞠のようになり、患っていた病気は消えてなくなるとともに、天真へ繋がるいささかの自覚と能力を得たという。 とこのように、剣客も高僧の教えに基づいて修行を行うという記述が多く残っています。剣術であろうが、拳術であろうが、本質は「見性得悟」(自らが実地で悟るもの)であるとも書かれています。 つまり、山籠もりであろうと、普段の稽古であろうと、日々の気付きの積み重ねで進歩していくこと、悟ることが大切です。 そんな難しいことは考えず、気分転換やリラックスすることが目的であれば、それもそれで結構。 まあ山籠もりといえども、滝に打たれたり、洞窟の中で飲まず食わずの坐禅するというわけではありませんが、(チャンスがあれば…なんて)バカンスや観光というのではなく、ここでは自己を律し、常に参禅しているような心持ちでいたいと思っているので、大げさですが、山籠もりと自分の中では位置づけしています。 今でも、このようなご縁をつないでくださった方々に感謝の気持ちで胸がいっぱいなのです。 少しずつご紹介できればと思います。 感恩。合掌 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021年05月03日 09時03分27秒
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