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伊弉諾神宮兵庫県淡路市にあるのは伊弉諾神宮。淡路島は、神話の国生みの舞台としても有名で日本書紀には、伊邪那岐命は、淡路州に幽宮をつくられて、静かに長く隠れられたと記されている。(「広げる」のではなく、「伏せる」「見せる」のではなく、「隠す」イザナギではなくイザナミは卑弥呼のような、巫女やシャーマンだったのだろうか?)その場所が淡路市一宮町多賀にある、ここ伊弉諾神宮だとされている。入口にある一の鳥居の高さは約8メートルで、 1995年の阪神淡路大震災で倒壊したため、再建されたものだ。神社というのはスピリチュアル詐欺師列伝の日本版駆け込み寺だ。スピリチュアリズム(心霊主義)そのものは、新科学の模索とともに近世ヨーロッパを席巻したもので、コナン・ドイルやウィリアム・クルックスまで巻き込まれたほどの、本格的ブームだった。シルバーバーチがキリストの名前を持ち出した時すべてがご破算になり、心霊現場は墓荒らしの様相になった。超能力も心霊現象も、また初期のスピリチュアリズムも、今現在のものとは一切かかわりのないものである。あのね、エゴもアイデンティティも、幼年期のごちゃごちゃも、気付いていない膨大な量の想起の川だ。心の中にたかだか百八つの煩悩があるなんて思わない方がいい、何故支配が生まれたのか、暴力がこれまでの多くの時代において、正しいと思われたのか、その思考の、感情の、存在の、機能不全になりかけの母体という深淵をゆっくりと見つめてみるがいい。毛綱毅曠の「反住器」を僕は思い出す。 一の鳥居をくぐると、両側に大きな狛犬が迎えてくれる。ここから真っ直ぐに伸びた参道を歩いていく、(白昼をゆらめき進む燐の軌跡だ、)ブルドーザーで巨大なバリカンしてやりたい参道だ。 理想は美しい、地に足がついていなければ空へ飛んで窒息する。参道の右手にあるのは、さざれ石と、敬神生活の綱領が書かれている石碑。昭和31年に日々の営みの中にある神道の精神を表明したものが、この敬神生活の綱領だ。神様と祖先に感謝し、 社会や人々のために奉仕し、 日本と世界の繁栄を目指すというような内容が三箇条に書かれている。大理石の獅子像や、断崖にそそり立った巨大象のように仰々しいが、こういうセンスは嫌いじゃな―――い。本当だ。ただ、息もしない口と、閉じられた眼、それから両手に石を載せ、足を紐で身動きできないように、括りつけてみたらいい。何とも言いようのない辛い気持ちを塞いでゆくにはどうすればいい、神社は所詮、空気が軽やかに澄み渡っている程度の場所だ。深夜の公園の池の水の上にうつっているのは影か、それとも夜の鏡か。どちらでもないと見破ることが出来たなら、砂時計のくびれも、過去の謎も見つかる。芝居の中の出来事のような他愛ない過去、として。手水舎にある手水鉢は、豊臣秀吉が大阪城築城にあたり、瀬戸内から沢山の石垣となる石材を調達した際、運搬時に誤って郡家浦沖に水没したものを氏子が引き上げ、手水鉢として、嘉永3年(1850)に奉納したもの。 神社というのを想う時、僕は盆栽や、瓢箪について考える。箱庭という意味でなら、枯山水だろうか。地球儀ではなく、世界模型。無から有たる気が生じる様を見よう、それは屏風に薄れた絵のような粗悪な故郷だ。石は人を「古」にし、水は人を「遠」からしめるこれは、「言葉による開示」である。僕は最初から「言葉を超えた開放」を求めている。古くから伝えられてきた日本および日本人の民族的風習としての宗教。神の威力、力、はたらき、しわざ、神としての地位、神もしくは神そのもの。民族的風習としての宗教に何らかの思想的解釈を加えたもの、(両部神道、唯一神道、垂加神道など)特定の神社で宣伝されているもの、(伊勢神道、山王一実神道など)宗派神道。(天理教、金光教など)明治16年に再建された正門は、以前は門の両側に神様を祀る随身門だった。 明治時代に記された淡路国名所図会に境内の様子が描かれており、 ここにも随身門として書かれている。文献に記された伊弉諾神宮については、 日本書紀、履中天皇5年の箇所にある伊弉諾神や、 允恭天皇14年の箇所にある島神の記載が、ここ伊弉諾神宮に比定されている。 また延長5年(927年)の延喜式神名帳には、淡路伊佐奈伎神社と記されている。 そして、平安時代末期の文献には、淡路国一宮として記されている。明治の初めに伊弉諾尊の一柱のみをご祭神とするよう定められたが、 昭和7年9月、いつの頃からか祀られていた伊弉冉尊を、合祀することを再び認められた。 昭和29年には、伊弉諾神社から、現在の伊弉諾神宮に改称され、境内の中には、以前の伊弉諾神社の社号標も残っている。それらは規範や慣例を、情念や観念ぶくみで初期化して、そこに見えてきたであろう「幹」から新たな「小枝」が、自在に組み合わさっていく様子を見てみることだ。「反対の一致の暗示」とか「書物らしさの追求の幻想」だ、過去は音の中にあり、風景の中にあり、そしてまたイメージの中にある。しかしそれはターナーの絵や、シュールレアリスムの絵。人間というのは、そう単純な生き物ではないなとも思う。砂で縄をなったり、表のない貨幣を風で鋳造したりするようなもの、やがて首のない幽霊が現れて、骨盤の中に自由な穴を見つけるだろう。 拝殿は明治15年に再建された入母屋造りの拝殿。檜皮葺三間社流造のご本殿は、明治12年の造営によるもので、 当時は現在よりも約18メートル前方に建てられた。 そして、その3年後の明治15年に現在の場所に移設幣殿が附設されました。 現在のご本殿のある場所は、ご神陵を整地した上にある。ミルチャ・エリアーデの永遠回帰する再生のシンボリズム、あるいは、メルカトールの陸地と円柱状の投影、あるいは、コペルニクスの宇宙と太陽中心の軌道、観阿弥や世阿弥と板張り三間四方の能舞台の神話、―――どれも世界の中にありながら世界に属さずにいるが、テレヴィジョンの砂嵐にも似た夜の凸面ガラスのように膨れる魂の声、固有のものは一つもない、創出よりも模倣を促す力が躍如する。分岐し、収斂し、平行する時間のめまぐるしく拡散する網目に、円環の廃墟がある。たとえばその名をシノワズリというのだ。頭髪感謝之碑は、発毛でおなじみリーブ21によって2008年に奉納された毛根の記念碑。 石碑に書かれていることには、髪は、神と同じ読みでもあり、頭髪は太古から生命存在の象徴として霊魂が宿るものとして、神聖化されてきた。 10月8日の頭髪の日には頭髪感謝祭、 8月20日の発毛の日には記念碑をシャンプー清掃が行われる。ご神木の夫婦大楠は、もともとは2本の楠の根が合わさり成長したもの。 樹齢約900年、根の周囲は12.4メートル、 幹の周りは約8メートル、高さは30メートルもあり、夫婦大楠の横に鎮座している岩楠神社には、蛭子命が祀られています。子孫繁栄、夫婦円満、延命長寿の後利益がある。 宇宙に対する中国人の考え方には、「上下四方を宇と曰い、往古来今を宙と曰う」という見方があって、これを荘子が「宇は実あれど処なきもの、宙は長さあれどはじめおわりなきもの」とみなした。おおむねは現状維持派や惰性派が多い僕等だけれど、天体望遠鏡から見ても、宇宙望遠鏡から見ても、実のところ、それとはあまり変化していないことがわかるだろう。ガガーリンが何言おうが、コペルニクスが何を言おうが、千年なんて日向の上にふと影を落とす鳥のようなもので、百本の杭のごとくある巌の中を滑りゆく水のようなものだ、と。伊勢神宮の皇大神宮(内宮)の遥拝所がある。 皇大神宮は、ここ伊弉諾神宮と同緯度の、北緯34度27分23秒の真東の位置に鎮座している。元禄元年(1688年)に改修が行われた東西の御神門は、 境内で現存する最古の建造物だ。 力石は、力比べに使われた石で、江戸時代後期から昭和のはじめまで盛んだったようだ。津名郡郡家村瀬岡虎吉 昭和3年4月20日 津名郡郡家町谷住竹松と、 力比べの優勝者の名まえが刻まれている。淡路祖霊社は、淡路出身の昔の賢人、兵庫県の神戸護国神社に祀られる淡路島出身の英霊と 伊弉諾神宮の歴代神職が祀られている。正門の手前にある池は、放生の神池という。昔からこの放生の神池には「病気平癒を願って鯉」を、「不老長寿を願って亀」を放つと願いが叶うという信仰が伝わっている。(「一つ目巨人の骨」「ソロモンの神殿の木釘」「ユダが首を吊ったときのロープ」みたいなもの)この放生の神池と、御本殿裏の杜のさらに奥にある御社池が、 かつて御神陵を囲んでいたお濠の名残だと伝えられている。参道の左手には、日時計と石碑があり、ここ伊弉諾神宮を中心とし、夏至、冬至、春分の日、秋分の日の日の出と日の入りの方向に、 ご祭神の伊弉諾尊にゆかりのある神々が祀られている神社が、鎮座していると書かれている。 ボルヘスはエル・アレフという場所をつくった。そこは「すべての場所が重なったり、混ざりあったりせず、あらゆる角度から眺められる地球上で唯一の場所」だ。それはspirit, soul, heart, anima, mind である。それはspace,universe,Mikrokosmosである。どれか一つである必要はないし、どれかを尊ぶ必要もない。全体と部分も区別する必要もない、人間の脳と言葉の発達が神を生み出した。レキシコグラファーによる辞書に、エッチング図解図版に、チェンバーズやディドロの百科全書に、ビュフォンらの博物学の組み立て。テレビ局やプロダクションのディレクターたちは、歴史や英知や文化を映像にまとめた。ところで白川静によると「申」は稲妻の形である。稲光は天にある神の威光のあらわれと考えられたので、金文では「申」をカミの意味に用いていた。神の元の字は「申」であり、それに神を祀るときに使う祭卓の形、「示」を合わせて「神」の字となった。それはspirit, soul, heart, anima, mind である。それはspace,universe,Mikrokosmosである。