2024/06/11(火)09:15
週刊 読書案内 青木真兵・海青子「彼岸の図書館」(夕書房)
青木真兵・海青子「彼岸の図書館」(夕書房) ぼくはこの本を市民図書館の棚で偶然見つけました。青木真兵・海青子「彼岸の図書館」。なんかすごい「題」だと思いませんか。「こっち」じゃなくて、「あっち」の図書館ですよ。 「なんだこれ?」 そう思って借り出しました。 感想といっては変ですが、もう少し温かくなって、ちょっと遠くまでの「徘徊」は「奈良県吉野郡東吉野村にしよう。」ですね。だって、「彼岸」があるんですよ。まあ、吉野だし、ホントにあるかもしれないですよね。
さて、大雑把で申し訳けありませんが、本の内容は青木真兵さんと海青子さんというカップルが、奈良県のかなり山奥であるらしい東吉野村というところに、阪神間から引っ越して、私設の「人文系図書館ルチャ・リブロ」を開設運営し、「オムライスラジオ」というラジオ放送で意見や情報を配信している実況中継といえばいいでしょうか?
彼が私淑するらしい内田樹さんをはじめ、内田さんの道場を設計した建築家や村への移住者、若い研究者たちとの対談と、お二人のエッセイが収められていますが、「人文系図書館ルチャ・リブロ」の正体がうまくつかめたかというと、そういうわけでもありません。なにしろ「彼岸の図書館」ですからね。だから、まあ、「ちょっと行ってみようか」という感じなんです。
しかし、青木さんが言う「彼岸」という場所というか、言葉は何となくわかります。宗教の言葉ですが、宗教ではありません。さっきからちょっとお茶らけて言っていますが、この「彼岸」にはとても心惹かれたんです。
「大人が多数を占める社会へ」という、ほぼ、巻末のエッセイの中で、彼は、まず、カール・マルクスを引用します。今時、マルクスですよ。ぼくなんか、これだけでうれしい。(真の)人間的解放がはじめて実現するのは、現実の個人一人一人が、抽象的な公民を自己のうちに取り戻すときであり、個人としての人間が、その経験的な生活、個人的な労働、個人的な人間関係のうちで、類的な存在となるときである。 今は、新訳が出ていますが「ユダヤ人問題によせて」というパンフレット用に書かれた有名な(?)言葉です。
そして青木さんはこう宣言します。 誰もが安心して暮らすためには、自己の中に、抽象的な公民を持つ人間、つまり「大人」が多数を占める必要がある。そして「抽象的」であるからこそ、具体的なアクションは人それぞれに任されている。その一ケースとして、ぼくらは「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」を開館し続けていきます。 この宣言の鍵になる言葉は、たぶん「公」ですね。マルクスの「抽象的な公民」という言葉の「公」の部分です。
ぼく的にくだいて言うと、人は家庭では「父親」であったり、職場では係長であったり、彼女の前では恋人であったりしますが、それだけだと、生きている「人間」であるということの大切な何かを失っていませんかと、まず問うてみる。
たとえば、彼氏の紹介が「給料明細」と「貯金通帳」と「出身大学の卒業生名簿」であるような恋愛している「わたし」って、疲れませんか?というふうに。
日々の生活や仕事に追われて、フト、「あれ、これって?」って思う、その時、自分の中に取り戻さなければならない価値観は何でしょう?それをマルクスは「公」といういい方で言ってるんじゃないでしょうか。だから、それは社会科の教科名ではないんです。
現代の社会で、何が「抽象的な公民」であることを見失わせているのか。端的に言ってしまえば、お金ですね。
消費社会と呼ばれている、今の社会では「すべてをお金の価値で測ることが大人のふるまいであり、そのような利己的な人間こそが社会人だ」というテーゼが大手を振って宣伝されていますが、それに対する青木さんの批判はこうです。 儲かればいい、売れればいい。儲けるためには差別を煽り、人の尊厳を傷つける雑誌も作る。このような言論が公の場に存在するということは、公が本来的な意味ではなく、単に「利己的な人間が多数いる場」になってしまうことを意味しています。 で、さっきの宣言になるわけです。なんか、とても爽やかな「若さ」、そして「希望」を感じましたね。
でも、なんか、その「キッパリ」とした若さが、仕事とか退職して年金とかいってるぼくには、なんか照れ臭い。ちょっと力んでるよねとか言いたい感じもする。
そう思っている「でもね、しようがない」気分の徘徊老人の目に青木海青子さんのこんな言葉が飛び込んでくるわけです。 「人文系図書館ルチャ・リブロ」は、小さな古い橋を渡って、杉林を抜けたところにあります。川の向こう側の図書館ということで「彼岸の図書館」を名乗っています。この「彼岸」にはもう一つ、「現世の社会や常識から、少し離れた場所」という意味合いも込めています。
ここでやってみてほしいのは、実はただ一つ、「現世での立場、価値観、常識という鎧をいったん脱いで、立ち止まって見る」ことです。
もしかしたら今の私の仕事は、「ルチャ・リブロ司書」より「ルチャ・リブロ奪衣婆(だつえば)」が適切かもしれません。「その鎧は彼岸への橋を渡るには重すぎじゃ、イヒヒヒヒ」みたいな。
大丈夫、此岸では戦をしていても、ここは休戦地帯です。誰も切りかかってこないから、安心して鎧に風を通してくださいね。 「ああ、そうか、立ち止まって『あれ、これって?』って、ちょっと、自分の生活の風景を向う側からのんびり眺めてみる対岸を作ろうとしてはるんや。」
ねっ、この「彼岸の図書館」、やっぱり、ちょっと覗いてみたくなりませんか。
「そうか、駅から歩いて橋を渡って行くのか。」って。
追記2023・11・20
それにしても、神戸の徘徊老人には吉野は遠いですね。なかなか、出かけることができません。また、今年も寒くなってしまったし(笑)。
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