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青木真兵・海青子「彼岸の図書館」(夕書房) ぼくはこの本を市民図書館の棚で偶然見つけました。青木真兵・海青子「彼岸の図書館」。なんかすごい「題」だと思いませんか。「こっち」じゃなくて、「あっち」の図書館ですよ。
「なんだこれ?」 そう思って借り出しました。 感想といっては変ですが、もう少し温かくなって、ちょっと遠くまでの「徘徊」は「奈良県吉野郡東吉野村にしよう。」ですね。だって、「彼岸」があるんですよ。まあ、吉野だし、ホントにあるかもしれないですよね。 (真の)人間的解放がはじめて実現するのは、現実の個人一人一人が、抽象的な公民を自己のうちに取り戻すときであり、個人としての人間が、その経験的な生活、個人的な労働、個人的な人間関係のうちで、類的な存在となるときである。 今は、新訳が出ていますが「ユダヤ人問題によせて」というパンフレット用に書かれた有名な(?)言葉です。 そして青木さんはこう宣言します。 誰もが安心して暮らすためには、自己の中に、抽象的な公民を持つ人間、つまり「大人」が多数を占める必要がある。そして「抽象的」であるからこそ、具体的なアクションは人それぞれに任されている。その一ケースとして、ぼくらは「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」を開館し続けていきます。 この宣言の鍵になる言葉は、たぶん「公」ですね。マルクスの「抽象的な公民」という言葉の「公」の部分です。 ぼく的にくだいて言うと、人は家庭では「父親」であったり、職場では係長であったり、彼女の前では恋人であったりしますが、それだけだと、生きている「人間」であるということの大切な何かを失っていませんかと、まず問うてみる。 たとえば、彼氏の紹介が「給料明細」と「貯金通帳」と「出身大学の卒業生名簿」であるような恋愛している「わたし」って、疲れませんか?というふうに。 日々の生活や仕事に追われて、フト、「あれ、これって?」って思う、その時、自分の中に取り戻さなければならない価値観は何でしょう?それをマルクスは「公」といういい方で言ってるんじゃないでしょうか。だから、それは社会科の教科名ではないんです。 現代の社会で、何が「抽象的な公民」であることを見失わせているのか。端的に言ってしまえば、お金ですね。 消費社会と呼ばれている、今の社会では「すべてをお金の価値で測ることが大人のふるまいであり、そのような利己的な人間こそが社会人だ」というテーゼが大手を振って宣伝されていますが、それに対する青木さんの批判はこうです。 儲かればいい、売れればいい。儲けるためには差別を煽り、人の尊厳を傷つける雑誌も作る。このような言論が公の場に存在するということは、公が本来的な意味ではなく、単に「利己的な人間が多数いる場」になってしまうことを意味しています。 で、さっきの宣言になるわけです。なんか、とても爽やかな「若さ」、そして「希望」を感じましたね。 でも、なんか、その「キッパリ」とした若さが、仕事とか退職して年金とかいってるぼくには、なんか照れ臭い。ちょっと力んでるよねとか言いたい感じもする。 そう思っている「でもね、しようがない」気分の徘徊老人の目に青木海青子さんのこんな言葉が飛び込んでくるわけです。 「ああ、そうか、立ち止まって『あれ、これって?』って、ちょっと、自分の生活の風景を向う側からのんびり眺めてみる対岸を作ろうとしてはるんや。」 ねっ、この「彼岸の図書館」、やっぱり、ちょっと覗いてみたくなりませんか。 「そうか、駅から歩いて橋を渡って行くのか。」って。 追記2023・11・20 それにしても、神戸の徘徊老人には吉野は遠いですね。なかなか、出かけることができません。また、今年も寒くなってしまったし(笑)。 ボタン押してね! ボタン押してね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.06.11 09:15:14
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