ケセラセラ
気にしすぎることは、気を病むことになります。終わったことは、気にしないケセラセラでもいいんです。本人が思っているほど周りの人は、思っていないのが常です。ミエとかゲエブンが良くないとか思って、いいところを見せなくてはと云う領分が邪魔するのです。最初から、どうでもいいんですと思えるならば、気に病むこともないわけです。子どもの心になれれば、怖いもの無し。ケセラセラ・童心は最強なのです。ケセラセラとは、 (que será, será 「なるようになるさ」にあたるスペイン語 lo que será, será からか) なるようになるさ、の意。昭和32年(1957)封切りのアメリカ映画「知りすぎていた男」の中で、ドリス=デイが歌った主題歌のタイトル。当時の流行語になった。そうか当時の流行語がインプットされていたというわけか。クヨクヨしたりするのは過去のこと、過去は過ぎ去った生ごみ今更クヨクヨしても意味がない、ケセラセラでいいのだ。これから先の未来のことなら、手の打ちようがある。未来のことならば軌道修正の手を打てるってことです。