心とは・・・石に刻む (開成山碑の事例から)
たのしみは 人生理念 創りたい そう思う人 現れたとき年の始めからなんですが、今までの人生をふりかえってです・・・人間は、「やろうと思っていたんだけれど」がなんと多いことか人がやったのをみて、実は、やろうと思っていたんだけれど・・・では、なぜできなかったのか。・最初の一歩を踏み出さなかった。・継続してやらなかった。やらなかったのは、いずれも思ったことをやらなかったわけです。では、どうしてやらなかったのだろうか。鮮明にやろうという意識を持たなかったから、忘れてしまった。いつまでにやると期日を決めて紙に書いて貼っておく。宣言することだと言われる。毎日、声に出して読むといいと聞いたことがあります。私は、そこまでやったことは、ありませんがやってみる、実験してみるのも面白いと思う。やってみる価値はあるだろう。打ち込みながら考えをまとめて書き込んでいます。走馬灯のように次々に移ろいながら変化してゆく時の流れの中で文字に書く。石に刻む。「企業理念を石に刻む」・・・ムム、、、これは、商品化できますね。書き込みながらアィディア抽出しても良いわけですが・・・どなたか、自社の企業理念を石に刻みたいとの思った方がございましたらぜひメールしてみてください。こんなふうにアィディアがそのまま、このまま、即、掲載できるブログのこんな使い方もおもしろいですね。楽しみながら、書き込んでみることですね。そうそう、自社の企業理念を石に刻んだものをサンプルにして私に申し込んだ方もそれが、自社商品にもなるわけです。できあがったら即、BLOGに掲載できるわけです。アイディア、BLOG書き込み抽出法の試みの中から、ビジネス化できる商品が生まれたらおもしろいですね。どなたか、これを読まれた方、いっしょに楽しみませんか。石にまで刻めば、計画を実現するまでやるだろう。紙に書くよりも石に刻んだほうがいいだろう。多くの人は、死んでから墓石に名前を刻まれますが、私のやろうとしたことはこれだ!私のやろうとすることは、こういうことなのだ!と宣言する人は少ない。亡くなってから名前を墓地に刻むことよりも自分のポリシーや思いを石に刻むことをなぜ選ばないのだろうか。私の住む郡山には、そういえば立派な石碑があります。江戸から明治政府ができ廃藩置県がしかれたころ、全国から士族の開墾事業者を募りました、安積野開拓です。猪苗代湖の水をひいて、原野を田んぼに変えたわけです。おかげさまで、あれから百数十年の現在、お米の生産量日本一の市となっております。そのときの安積野開拓の記念碑は、中国の易書の本から引用された「開成」の文字です。原野を打ち開くことが成る。力強い文字の揮毫です。(開成山碑)この石碑の文字は、一文字の大きさが計ってみましたら85cmありました。郡山市内にある石碑の文字では、一番大きいと聞いています。石に刻んだことが、今日、日本一のお米作りとなって実現したわけです。思いを石に刻むことは、理念を伝えることになります。開成山石碑のある場所は、開成山大神宮・本殿入り口の鳥居前の道路挟んで東北植え込みの中です。安積原野は国内第一号の国営開拓地に明治9年、明治天皇の東北巡幸に際して、事前に大久保利通が来郡。中條政恒らは、開成山地域の開拓や桑野村の整備という実績を掲げ、安積平野全域の開拓の拡大と、猪苗代湖から灌漑用水を引くことを大久保に強く要望しました。その後、「殖産興業」と「士族授産」を持論としていた大久保の働きかけで、安積開拓・ 安積疏水の開さくは、国の第1号開拓事業として進められることになるのです。そして、水利が開けることを受け、明治11年からは各地の士族が安積平野に続々と入植。全国の9藩から約2,000もの人が郡山に移り住みました。明治11年、ファン・ドールンによる実地調査をもとにした監修が行われ、明治12年、安積疏水の起工式が行われました。それから3年後の明治15年に安積疏水は完成しました。こうして開かれた水路が、今日の郡山発展の大きな礎となっているのです。開成山大神宮:安積開拓の開拓民の精神的なよりどころにするため、福島県の典事の中條政恒が伊勢神宮の分霊の奉遷を神宮司庁へ働きかけた結果、明治9年(1876年)に認可がおりて創建。安積国造神社:創建は成務天皇5年(135年)、比止禰命が初代安積国造に任ぜられて安積国を建国し、神社を創建して和久産巣日神と天湯津彦命禰命を祀ったのが起源とされる。