夕焼けに出くわすと、何がすごいって沈む太陽のエンターテイメント性がすごい。
まさにショータイム。
けどわたしはふと、後ろを振り返って東の空を見るタイプです。
うす桃色。
始まりかけの夜空の、ブルーの憂い。
東側は太陽が沈みゆく西と違って、ずいぶんさびしく、淡い。
周りのものの輪郭が曖昧に、自分の影も薄くなっていく心許なさ。
夕焼けの裏側(東の空)
夕焼けの表側(西の空)
父の一周忌関連にあわせて実家へ。
生前には考えられないほど長い時間をかけて、父の話をする。
今さら、意外な一面を知る。
一年前は人が死ぬことのあっけなさ、ドラマ性にばかり目がいって、自分が死んだ場合について考えたり、どうせ死ぬならいっそ無鉄砲に生きてもいいのではなかろうかと考えた。
一年後の今は、父抜きで生きていく母のこと、実家のありように気持ちがいく。
そして、それらに自分がどこまで寄り添えるだろうかと考える。
母は父と50年、一緒にいたので、たぶん体の半分を失うような空虚感が続いているのではなかろうかと思うのだけど、わたしにはわからない。
毎朝、生前と同じように、父のためにコーヒーを淹れ、ろうそくを灯してお線香を立てている。
というと、涙なみだで悲しみにくれている、という感じがするでしょう。
違う。
母のやり方はとてもさっぱりしていて、はいどうぞ~と明るく、さらりと父の遺影の前にカップを置く。
ろうそくが自然に消えたら、ハイ終わり、とさっさと片付ける。
たまには忙しくてできない日もあり、そんなときは、まぁいいや、と笑う。
だからこそ、なんだよねぇ。
父がよく釣りをしていた海へ散歩に出ると、堤防を歩く母の姿には、深いふかい悲しみがある。
いよいよ父ゆかりの場所にさしかかると、胸いっぱいになっているのがわかる。
わたしはそういう母の姿が切なくて、いじらしく、けど一人の人間として、これ以上は立ち入ってはいけない部分のようにも思うので、何も言わないで歩く。
立ち入ってはいけない、というか、立ち入れないというか。
わたしの、人としての限界だなぁと思う。
他人の悲しみや傷といった心の奥の動きに対して、一歩踏み込んで話を聞き出してくれる友人を思い出す。
彼のようなことが、わたしにもできればいいのだけど。
上記の夕焼けの裏側の写真は、波のそばに降りていく母がちょこっと写っています。
その背中にわたしは、信じられないような大きな悲しみを見た。
ああ写真を撮らなくちゃと、なぜか思ったんだわ。