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カテゴリ:音楽、映画、講演・・・アート発表の現場
「姫、お目覚めの時間です。」 階下からの声にまどろみの中から引き戻されると、 なにやら好い香りが漂い、 食卓には美味しそうな夕食の準備が、 そして、そこには、「映画」と云う甘い罠が待ち受けていた。 と云う事で、 まだ抜け切れない風邪に、 思い切って身体を休め(昼寝)、 夕食後は、一気に仕事を減らそうと意気込んでいた私は、 自らその甘い罠の中に、身を投じてしまったのである。 ・☆・☆・☆・☆・☆・ スターウォーズ「シスの逆襲」を観ました。 中々意味深い物を感じました。 心の暗黒部分が自分の心を支配し、 それにより一番愛している者を失った時、 ひとは どのような行動を取るのでしょうか? 同じ過ちを繰り返さないように、 これからの自分は、「同じ思いを他の人にはさせたくない。」と考え、 生きて行く事を選ぶのでしょうか? 自分の死を選ぶでしょうか? 怒りの中に身を流し、 自分の中の悪を、仕方が無いことだったと肯定する。 それにより他を排除する事も辞さず、 落ちられるところまで落ちながら生きる事を選ぶのでしょうか? 逆恨みとか、そんなことをやっている自分にさえ気付かないほど、 心に何も無くなってしまった場合、 自分の中のどの部分が現れるのでしょう? 何かの所為にすれば、楽になります。 「人間の理性って何ですか?」 すごく、疑問になってしまいました。 幸い、今まで私は、最愛の人を失くした経験がありません。 だから、解っている様な事は書けません。 でも、今の私は、 「同じような苦しい経験を味あわせたくない。」という想いが大きいです。 主人公が、自分の愛する人の命を守りたいがゆえに、 子どもの命までも、奪う部分。 ここでは、とても胸が苦しくなりました。 そして、話は飛びますが、 「鬼子母神」 を思い出しました。 鬼子母神は、500人いる自分の子どものために、 人間の子どもを さらっては食らっていた美しい神様の話ですけど・・・ お釈迦様が、悟らせるために、 彼女の500人の子どもの内、 最もかわいがっていた末の子どもの姿を隠しました。 お釈迦様のところに行き、失った悲しみ、苦しみを訴えた彼女に、 「500人の子供の内、たった1人を失っただけで、これほどの嘆き悲しみを訴え、私に助けを求めている。たった数人しかいない子供をあなたにさらわれた人間の親の悲しみはどれほどであっただろうかが、今のあなたには今わかるのではないか?」と話し、「命の大切さと、子供が可愛いことには人間と鬼神の間にも変わりはない。」 と教えられて、子供を鬼子母神の元に返したと云う、お話ですが、 この時に、隠していた子どもをお釈迦様が返さなかったら、 鬼子母神は、どうなっていたでしょう? 子どもが帰ってきた喜びが大きかったから、 いなくなった悲しみに対比するような、大きな喜びを知ることになり、 心に変化が見られたのではないでしょうか? 予知した愛するもの死に、 愛するものを守ろうとしたゆえに、 その方法しかないと思い込み、悪に手を染める。 そしてそのことが、 愛するものの死に繋がって行った云うことを知ったときに、 あなたはどう考えますか? 主人公「アナキン」の子どもを身ごもった「アミダラ女王/パドメ」は、 この殺戮が自分のために行われたのを知り、 身体は正常なのに、心が命を死に向かわせたのです。 書き足し: でも、やはり私は、他に危険をもたらさない時(事)には流されても、 最終的な、特に「子どもの命を奪うのか?」と云う時には、 理性を持っていたいと考えています。 この映画のシリーズの一作目 『スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望』を、 最初に観たのは、1977年だから、28年ほど前? この時には、勿体ぶった他のSF映画に比べ、 ハリウッド的な爽快な面白さがかえって良いなと感じていたのだけれど、 原作は読んでいないのだけど、 この原作には、底に流れる伝えたい想いがあり、 だから、ただのお軽い映画以上の魅力が、 長い間、観る人の心を惹きつけてきたのではないかしらと思いました。 でも、まだ本当のところは未消化です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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