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「2ちゃんねるはリゾーム(地下茎)だ」という論を詳説しようと思ったが、心が変わった。 昨日、仕事の先輩が現れて、2時間半の動画をキャプチャーした。単純な記録ものなので、真剣にテレビモニターを眺めていても、もったいないので、最近のネットの動向について説明した。 最近の話題は、Youtubeである。 私は、ANBのスーパーモーニングにおける「亀田父vsやくみつる」の映像を見せた。同じ画面にあるボタンをクリックするだけで、関連動画を見ることができる。それも、核心部分だけだ。やしきたかじんの番組には、大いに笑わせてもらった。やしきたかじんは、感情的・私的に言説することで有名だが、それを数値的にバックアップするように、スタッフが念入りに調査をしているところが、すばらしい。勿論、数値の根拠は示されないが、大方納得できる数字ではある。 つづいて、TBSの安倍・731部隊サブリミナル問題の映像を見せた。私と同様、テレビマンである彼は、辛坊アナウンサーの「これは現場のゲリラ活動です」というコメントに納得した。 ここに及んで事実の情報共有はかなりすすんでいると思う。 たしかに、朝ワイドショーで、極楽とんぽの加藤氏が号泣した場面は、日本テレビが削除依頼をして、削除された。だが、地上波メディアが今後生き残る道は、コモディティー(日用品)化に対応することだとするならば、このようなことも、ネットがかつて無断リンクがマナー違反だったというような過渡的状況でしかない。つまり、YouTubeの番組宣伝的な効果が実証されれば、YouTubeと地上波メディアが手を組まねばならぬということだ。 批判が高まっても、それが高視聴率に繋がるなら、テレビ局は痛くない。それは、スパムメイルが増えても回線業者はトラック数が増えるので痛くないのと同じことだ。 そのようにして、いたちごっこの時期を経て、地上波メディアとネットのコモディティー化はすすんでいき、情報共有の時代が到来すると思う。 ☆ さて、2ちゃんねるはリゾームだと形容した。その意図は、2ちゃんねるはすでにひとつのメディアではない。だから、そのメディアに反感を持ったり、批判することは無価値だということ。 テレビ局の偽善性に対抗して、湘南でゴミ拾いイベントをしたり、ミスタースミスを街中に登場させたときは、2ちゃんねるはメディアであった。 だが、西村氏が本音で言っているかはともかくとして、基本はあくまで「あたらず、さわらず、まったりと」である。つまり、2ちゃんねるは基本的に伝達する場であることを主張しない。 そして、スレッドたちに表出するのは、ほとんどが感情情報である。2ちゃんねるを批判する人の多くは、そういう感情情報の部分に心を動かされてのことだと思う。だから、感情情報を排したテンプレート(スレッド冒頭にある過去のスレッドのまとめをした部分)を読めば、感情を乱すことも批判することもせずにすむ。 そういう現状を考えれば、市民参加型ジャーナリズムが成立する部分というのは、テンプレート以降だと思われる。オ・ヨンホ氏は生木(市民記者の生記事)と薪(編集部の校正済の記事)の部分をつくって、オーマイニュース韓国版を運営していたというが、2ちゃんねるでいえばテンプレートが生木の部分といえるのではないか。だから、もし、スレッドのベタな言説が、生木の部分に露出すればバッシングはまぬかれないし、それが薪の部分に露出するなら、編集部の責任も逃れられないということだ。 感情共有という意味では、2ちゃんねるのベタな言説はあっていい。だが、それをオーソライズしていく過程には、そういう感情的なものは暗喩しては成立するものの、文章の表面では抑えるべきである。 鳥越氏は、「喜怒哀楽驚恐(きどあいらくきょうきょう)」と述べている。たしかに記事を書く動機としてそれはあっていい。だが、それをそのまま記事の体裁にすることは、いらぬ摩擦・反発を呼ぶに違いない。 エリザベス・キューブラロスは、死の段階許容説として、
との5つの段階を指摘しています。 簡単にいえば、
これは、死を医者から宣告された患者の心理の時間的変化について説かれたものですが、人間の心理の生理の本質をついた言葉だと思っています。 問題は、どの感情のフェイズで記事を書くか…。どの段階でも記事を書けるのですが、第二段階で記事を書くことは最悪だと思うのです。 その意味で、ふじみ野市のプール事故の被害女児のお父さんのコメントは立派だった。そして、お母さんが泣き続けることが悲しい。 2ちゃんねるはリゾームであるということを書こうと思いましたが、長くなりました。 次回に論じることにします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006年08月08日 08時10分24秒
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