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カテゴリ:「メディアの時代からP2Pの時代へ」
「インターネットガバナンス-理念と現実」(会津泉著)を読んだ。
著者は、多摩大学 情報社会学研究所 主任研究員 ということだから、「新聞がなくなる日」の歌川令三先生の同僚ということになるだろう。 歌川先生の研究会のメンバーとしては、傍ら痛いことではあるが、言論の根本からして会津氏と乖離していることを明確にしなければならない。 そして、それは、単に私と彼との言論の乖離というのではなく、エスタブリッシュメントと非エスタブリッシュメントの乖離であり、生産者と消費者の乖離であり、その間隙は決して埋まることはないと絶望している。 そして、何故、私がその絶望に負けずに言論するかといえば、どのような商品においても、消費者に対して生産者の数の割合は殆ど無視できるほどに少ないはずなのに、生産者やそれに組する者たちの言論しかメディアに登場していないことを憂いてのことである。 ☆ そもそも、インターネットにガバナンス・統治するなどという概念は似合わない。 それは、帝国主義的国家のみならず、極めて民主主義的な国家をイメージしたとしても、成立しえない。 その理由は何かといえば、24時間365日の連続会議が可能なインターネットにおいて、代議制は合理性を持たぬからである。 そのようなインターネットにおいて、委員会制度や理事会を想定することは、本来フラットであるべきインターネットで、自らの優位性を保持・獲得しようとするエスタブリッシュの試みである。 彼らは、委員会や理事会をつくることに専心し、エンドレスな議壇をつくることをしようとしない。 ☆ 衆愚に委ねては、インターネットの存亡に関わるルールを決めることはできぬ。 との批判もあるだろう。 しかし、そのような批判こそ、硬直した過去の論理であり、旧態然としたものなのである。 ☆ ガバナンスというものが、どのような条件によって、成立してきた概念かを考えてみればいい。 リアルな場において、人間というものは、一つの場所にしか存在できぬ。そして、一端存在してしまった以上、すべからく統治を逃れることはできぬ。 そして、統治を合理化するものは、何らかの外敵・外圧である。 つまり、離れ小島で、ちいさなコミュニティーが存在しているとき、それは共同体であって、政府や国家ではない。だが、突然黒船のような外来者がやってきてコミュニティーの安逸が危険にさらされるようなことが起きると、単なる共同体は国家への変貌せざるをえないのである。 そして、自らの共同体の同胞が彼らの幸福を約束するかどうかも分からない。 外来者の統治が必ずしも不幸を呼ぶとは限らぬことを、いまのハワイ諸島の繁栄を想起すれば、理解できるはずだ。 ☆ インターネットは無限の地平である。 したがって、有限の地面の所有権を争うことに意味はない。したがって、ガバメントにも合理的はない。 まず行なうべきことは、24時間365日継続して有効な論議が行なわれる論壇をつくることである。 そして、その論壇の意見を元に、エスタブリッシュがインテグレータをつとめることである。 エスタブリッシュが、何者の代表者・代弁者であるかが、そこで明白になる。 そして、そのようにして、施行案ができあがる。 ☆ そして、ひとつのルールができあがる。 だが、そのルールに合意するかどうかは、すべてのネット者の判断に委ねられる。 つまり、新しいルールに合意しなければ、そのコミュニティーに参加しなければいい。 それだけのことだ。
☆ 村井純教授は、IPV6の立ち上げのために尽力している。 その必要性は理解するし、そのために尽力する彼の努力は尊敬に値する。 だが、もうひとつの視点として、IPV6は、その外の世界としてIPV5を否定することができぬ。 そこにこそ、これからのインターネットの未来がある。 旧来の思想を引きづったインターネット・ガバナンスなどいう概念に意味はない。 ☆ 会津氏は言う。 インターネットの理想は、自律・分散・協調である。と。 そして、ガバナンスの理念は、集中・統一・管理である。…とも。
インターネットを主導しているような頭のよい人たちが、そのことに気づかいていないとは考え難い。 きっとステークホルダーの奴隷と化して、目的追求的所作ではなく、手段追求型所作に陥っているのだろう。 インターネットがこれほどまでに新しい思想を提出しているというのに、それを否定し続けているとは、何とも嘆かわしいことだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年03月19日 10時59分52秒
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