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衣笠選手が亡くなった。
とにかく寂しい。 あの、明るくて、強くて、優しい笑顔は、広島カープファンだけでなく、すべての人に愛されたと思う。 私が、今こうして「スポーツで福島を元気に!」と細々ながらスポーツボランティアに関わり続ける原動力、それは衣笠の笑顔に重なり合う。 小6の時、広島カープが初優勝を果たした。(年が完全にばれる(;'∀')) 1975年10月15日(水)、デーゲームでの巨人戦。 私たちは教室の後ろに机やいすを追いやって、教室にある小さなテレビ画面をクラス全員で見つめていた。本来であればもちろん授業中の時刻である。でもこうしてテレビを見るのが当然のような気がしていた。 野球好きの男子だけではない。女子も全員、息をのんで、その一球一球を見つめていた。 4-0でリードの9回裏ツーアウト、巨人・柴田の打った打球がレフト・水谷のグラブに収まった瞬間、私たちは「キャーーーーー!」絶叫し、飛び上がり、抱き合った!。 ふと担任教師を見ると、涙をボロボロ流して男泣きしているのだ。 大人が、先生が、あんなに人目もはばからず泣いている姿を初めて見た。 私たちはその瞬間に、スポーツの力や、広島の歴史や、平和な世界の素晴らしさなど、たくさんのことを身をもって知ることになったのだ。その象徴が衣笠の笑顔だった。 パレードには遺影を持った人がたくさん駆けつけたという。 カープが優勝するところを、本当に心待ちにして亡くなっていった広島の人たちが大勢いたのだと思う。 あの日の衣笠の笑顔は、広島が平和都市へと進む道を鮮やかに照らしていた。 スポーツが街を、そこに住む人を、そしてそこで育つ子どもたちの未来を明るく、元気にすることがある。たぶん私たち広島の子どもは、カープの活躍を自分たちに重ね合わせ、「できるんじゃ!」「やろーやぁ!」と自信をつけたのだと思う。 矢沢永吉、吉田拓郎、浜田省吾、世良公則、原田真二、吉川晃司、奥田民生、ポルノグラフィティ、perfume、挙げればきりがない広島出身のアーティストたちも、たぶんこの時感じた「広島の熱」の影響を受けているような気がする。だいたい明るく、まっすぐな自信家である(笑)。 広島カープが生まれたのが終戦から4年後の昭和24年、初優勝したのは、終戦から30年の昭和50年である。これだけの時間が必要だったのだ。(昭和50年の広島の雰囲気は、同世代の作家・重松清作「赤ヘル1975」が詳しい) 今、福島はまだ混乱期にあると言えるけど、きっとスポーツの力は、どこかで福島を元気にすると私は信じている。それは自分の中にはっきりと実像として残っているから。その実像はあの日の衣笠の笑顔でもある。 さあ!今日もまた、少しずつだけどがんばろう! 衣笠祥雄の優しい笑顔を思い浮かべながら。 合掌。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.04.25 12:11:47
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