『黄金のアデーレ 名画の帰還』を観て
サイモン・カーティス『黄金のアデーレ 名画の帰還』(2015年/アメリカ・イギリス合作/109分)今、観るべき映画。黄金のアデーレ 名画の帰還 「オーストリアのモナリザ」とも言われるクリムトの名画『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像1』(通称名『黄金の女』)の所有権をめぐる法廷ものです。単なる法廷ものというよりも、個人の尊厳の回復や負の歴史と向き合うテーマが明確に打ち出されていて、日本映画の現在に対して思いを馳せてしまいました。 かつてこの絵は、絵のタイトルにもなっている女性アデーレ・ブロッホ=バウアーの家に飾られていた。彼女の夫一族は砂糖会社で成功したユダヤ系で、邸宅にはたくさんの美術品と音楽が溢れ、本人たちも芸術を愛する名家だった。子供のないアデーレ夫妻から娘同然に育てられた姪のマリア・アルトマンは、ナチス旋風の吹き荒れる中、夫とともに命からがらアメリカへやってきた亡命ユダヤ人の一人でもある。友人や両親をなくした故国でのつらい記憶を忘れて新天地に生きてきた彼女は、82歳のある日、死んだ姉の遺言状から、これらの絵の所有権が自分にあることを知る。 『黄金のアデーレ』を取り戻したいと考えたマリアは、オーストリアにルーツを持つユダヤ系移民のネットワークから若き弁護士のランディ・シェーンベルクに白羽の矢を立て、美術品返還の申し立てを依頼した。 『黄金のアデーレ』の美術品評価額は一億ドル以上。独立に失敗し、法律事務所に就職したばかりのランディは、当初は経済的な見返りを目当てにこの仕事に打ち込む。マリアと同じくオーストリアから亡命した作曲家・シェーンベルクの孫でもある彼は、アメリカ生まれアメリカ育ち。それまでホロコーストに対しては遠い国の出来事のように感じていたが、過去と向き合う決意をしたマリアとともに赴いたオーストリアで、この仕事は自らのルーツと向き合い、家族の過去の尊厳を取り戻すためのライフワークだと考えるようになる。 かたくなな態度を崩さないオーストリア政府にマリアが匙を投げても、ランディは信念を持って告訴に取り組むが……。 国家や歴史という大きなものに蹂躙された個人の生活、そして自分自身の過去を取り戻す戦いをこういった形で描くことができるのかと感嘆しました。その土地に溶け込んで暮らしていた「普通の人々」が、扇動された「普通の人々」によってある日突然、ルーツのみで区切られ、人前で文化的な象徴をないがしろにされ、屈辱的な扱いをされ、大切なものを奪われる惨さ。ナチスのユダヤ人政策ものというとアウシュビッツなどの収容所映画が目立ちますが、この映画では直接的な殺害描写は一切なく、かわりに、今の私たちにも通じる、生活の中でのささやかな持ち物がニヤニヤ笑いで強権的に奪い去られる悔しさ、行き場のない民衆の鬱憤が差別心となり、人種を蔑称のように使われて住処に落書きをされる恐怖、ヒゲや髪の毛を公衆の面前で切られ笑われる屈辱といった形で描かれます。 幸せだった子供時代、結婚当初、アメリカへの亡命などマリアの回想部分は脚色によって謎のアクションが入ったりもしましたが、文字だけで「ホロコースト」「ナチス台頭」と書くだけではわからないこと、つまりそこに生活する人がいたこと、ジワジワと国外へ出るのが難しくなっていく状況、芸術が次第に権力者の好みによって抑制されたり称揚されていく危うさが、単なる過去の話ではなく現在にも連続してつながる話として理解しやすく表示されていたと思います。 そして何より怖いのが、このジワジワと国外への渡航が実質禁止になっていく状況や、賃金が一向に上がらない民衆の鬱憤を国内の外国系市民差別に向かわせて政府を盲信させるやり口、右傾化からそのまま一気に国粋主義になだれ込む流れ、さらには(ナチス政権とは連続性がないはずなのに)ナチス的見解で「これは自分たちが生まれる前からここにあったものだ」とでも言いたげな態度でマリアをないがしろにするオーストリア政府の態度が、そのまま現在の日本にぴったり写し絵のように合うこと。 今週からマイナンバーなしで海外送金ができなくなるそうですが、そのニュースを見たときにちょっとこの映画のことを思い出しました。 この映画でしみじみ思ったことは、日本の映画界……というか日本が映画というソフトパワーでグローバルに評価を得たいなら、それこそ従軍慰安婦の経緯や関東大震災のときの朝鮮人虐殺、アイヌの同化政策、沖縄併合など国内の差別や差別と認識されていない事柄、または水産資源を食いつぶしてウナギやマグロやウニの生態系をどんどん崩している現状などを問題提起として撮るしかもう道はないだろうということです。作中でもマリアやランディに協力するオーストリア人記者フーバータス・チェルニンは、自身の尊敬する父が熱狂的なナチ信奉者であったことを知り、「愛国者」としてオーストリアの負の歴史と向き合い、償うことがオーストリアの誇りを保つことだと語っています。 少なくとも、東京国際映画祭で「小津や黒澤、世界で尊敬される監督は日本人だということを忘れないでください」とか「国辱」そのものな英語コピーつきの広告出したり、トルコに金払って海難なんたらいう公開オナ映画撮った挙句「世界に類を見ない逸話」とかホラ吹いてるヒマあったらもっとできることあるやろと私は思うのでした。まあそもそもそういう映画を作ろうという気概のある監督はいてもスポンサーは集まるのか、説教臭すぎず批判のエンタメとして撮れる土壌があるのかという問題が一番大きいんですけど…。 いや、ほんとはそういう映画が作られるだけでなくて、それこそ韓国の『トガニ 幼き瞳の告発』みたく国内興行でヒットし世論が盛り上がってそのまま被害者救済法が成立して……というくらいまで行くのが正しいあり方ちゃうのと思うんですけど、正直なところ私は日本社会にそこまで期待できない。『国際市場で逢いましょう』が公開された時、本国内では「自国の歴史のいいところしか描いていない、加害の歴史や、実際にその世代の老人で成功した者は一握りだと描くべきだ」という意見も目立ったそうで、あの映画を観て「昔は良かった映画になってない!すげえ!」とか言うしかないこちらの状況との意識の違いに愕然としたことが思い出されます。(なお、この家父長制の善の部分を描いた映画と対になるのが『海にかかる霧』なので併せて観るのがオススメ)国際市場で逢いましょう海にかかる霧 あとあれですね、『マルタのやさしい刺繍』のときも思ったけど、歳とったらとったで自分たちの世代が温存してきたりナアナアにしてきた「旧弊」をブチ壊すことがロックなことになるなんだなと思うと、歳とるのが楽しみになります。ヘレン・ミレン様があまりにチャキチャキしていたので、予想以上にライアン・レイノルズの若造感が補強されてたのも観てて楽しい。お正月からいいものを観ました。