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2012.06.12
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カテゴリ:歴史よもやま話



ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心をそめぬ ことをしぞ思ふ(信西入道)


あじさい01.jpg

(額紫陽花 砂浮琴撮影)

信西(藤原通憲)の家系は、曽祖父実範以来、代々学者で知られた家系で、
祖父季綱は大学頭だったようだ。


天永三年(1112)、父の実兼が急死し、通憲は縁戚の高階家の養子となる。
高階氏は摂関家の家司として活動し、諸国の受領を歴任するなどしていて、
経済的には裕福な一族だった。


通憲は、高階氏の庇護の下で学業に励み、とにかくも猛勉強して才智を磨いた。
保元二年頃、通憲は鳥羽上皇の寵臣藤原家成と同年代で親しい関係にあり、
家成を通じて平忠盛清盛父子と面識を持ち、交流したとされる。


通憲は、あまり官位には恵まれなかった。
天治元年(1124)に中宮少進、天治元年に待賢門院蔵人、崇徳天皇の六位蔵人も務めるが、
大治二年(1127)に叙爵して蔵人の任を解かれ、不遇のときも過ごしたという。


しかし、妻朝子が鳥羽上皇の第四皇子雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母に選ばれ、
少しばかり風向きが変わりはじめ、無双の才智を武器に中央へ躍進しようとした。
けれども、世襲化した公家社会では官僚政務は藤原家が独占状態で、家柄がモノをいった。


あじさい02.jpg


失望した通憲は、いっそ出家しようと考える...
噂を聞いたライバルの藤原頼長は、才能がもったいないと説得の書状を出し、
酒を酌み交わし、通憲と頼長は世の不条理を嘆き合ったという。


鳥羽上皇も、通憲に出家を思い留ままらせようと正五位下 少納言に任命し、
息子の俊憲に大学頭に必要な資格を得る受験を認める宣旨を与えたけれど、
通憲の決意は揺るがず、天養元年(1144)に出家して、通憲は信西と名乗る。
こうして立場を変えて、藤原支配を打破し根本から改革しようと志した。


歌は、信西がそんな決意の胸のうちを詠んだ歌だそうだ。
身は出家しても、自身は俗界から離れる気はなく、名目だけで、
心まで染めるつもりはないと...



こうして信西は、やや裏技を駆使して、院殿上人院判官代と地位を上げた。


必死に勉強して利口になったらなったで、上役や周囲に疎まれることも多い。
社会では、ずば抜けた才覚より、血統や親のコネがまかり通る。
どうすりゃイイんだという、信西の苦悩の想いはよく理解できる...













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Last updated  2012.06.12 15:42:54
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