ないものねだり

2015/10/29(木)04:17

祖父の椿

砂の魂のふるさと(14)

     花遊び 御幣(ごへい)まわしの 夢一夜 祇園の月は 盃のうち(砂祖父の歌) 祖父の歌の御幣まわしとは、祇園のお座敷遊びの一つで、 芸妓と客が輪になり、御幣に見立てた箸を囃子に合わせて回し、 三味線が止んだとき、御幣を持つ者が負けて盃を干す。 和歌で、詠み人の人柄や人物像が想像できるが、 祖父は、軍人でありながら、文人、風流人の一面もあった。 庭では、薄桃色の椿が蕾を膨らませはじめた。 昭和16年の秋、当時海軍中佐だった祖父が、 出撃を前にして植えた椿だ。 祖父は、ボストンに留学して英語の発音はNativeだった。 留学中はビリヤードや社交ダンスに興じ、結構モテてたと自称。 居合いに長け、書、水墨画、三味線、和歌、茶の湯を嗜み、 Jazzとロシアの詩と文学を愛した。 酒はバーボン、煙草はラッキーストライク、 愛車はシボレーと、何かとこだわりのある御仁。 運命とは、何とも皮肉なもの...、 英米との戦争には最後まで反対を唱えながら、 結局は命令一下、真珠湾へ出撃した。 太平洋戦争では、大勢の戦友に加え、長男を特攻で失い、 自身も負傷して、玉音放送は自宅で聴いたという。 戦後、公職や外資の誘いを断り、株で稼いだ。 「ワシは餌を貰うても牙は剥く 飼い慣らせん野良犬や」 などと、孫に囁いていた祖父。 だがしかし、祖母の小言は正座で聞いた。 祖父との一番の思い出は、何といっても祇園の茶屋遊び。 祝儀を惜しまず、粋に遊ぶとはまさにあの様。 自ら三味線を弾き、小唄を歌いなどして芸妓と踊る、 あのときの祖父の粋な着物姿は、今も脳裏に蘇える。 今振り返れば、度々のお座敷通いは、 祖父から授かった、唯一の教育だった。 父の代になると、庭は30年間手つかずとなって荒廃し、 さらに、阪神大震災と水害が追い討ちをかけた。 そして今、私は祖父との思い出を辿りながら、 この庭を少しずつ元の姿へ戻そうとしているのだ。

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