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カテゴリ:時事ネタ
私はスポーツというのが苦手だ。元々運動音痴という理由もあるが、今話題にしたいのはスポーツの精神論的な考えが苦手だ。 「勝負」「競争」「順位」「優劣」などの言葉がある。人と競うスポーツによくある言葉。しかし、そこにどれだけの価値があるのだろうかと思う。 スポーツで何かを必死にやった事はない。やった事のない人間にわかるわけはないだろう。しかし、私は先にあげた言葉を求めたいと思わないし、その言葉が私の人生においてどれほど必要なのかという事を考えると必死になることは現状ない。 だが、そういう経験を必要とする人もいるだろうし、そのような経験を積む事で人間としての最低限の資質を身につけるという考えなどもあるだろう。 否定はしない。いや、むしろそのような言葉と意味は世の中に存在すべき必要性のあるものだろう。 体罰問題がやっと表面化してきた。氷山の一角といえどだ。 特に最近話題になってるのは学校の部活、更には五輪代表の指導においても体罰問題が出てきた。 思うのだが… 一体誰のために勝負に挑んでいるのかと思う。 叩いたり殴ったりする事で技術が向上すると思えないのだが。 また、本人のやる気が見られない、行った行為が迷惑等の理由であるならば、その本人を外すなり、話し合うなりすればいいではないか。それでだめなら退場してもらえばいいと思う。 基本的にはスポーツの勝ち負けは本人と周囲の自己満足の世界であり、この当事者達が負けたとしてもなんら世の中に影響がないわけだ。 それとも試合に負けたら犯罪者にでもなるのだろうか。 要は叩いたり殴ったりしてやらせる必要は何なのか。 一体誰のために何のために叩いたり殴ったりしてるのかという事だ。 本人のため?しかし、本人は自らその時その一瞬を選択して生きている。将来、後悔させないために痛みを与える?本人達に喜びを与えたいから痛みを与える?他にも色々あるだろうけど、一つ言えるのは「本人達に」的な発言は納得がいかないという事だ。 「本人の将来を・・・」という人は未来を予言出来る占い師なのだろうか。 人間は考えれる。 まして自分の意思でやりたいとそこに立った。そして去るという考えも出来る。しかし、そこに暴力を与える事により様々な「恐怖」が生まれる。 芸を強要される動物達。自らやりたいと思ってサーカスにやってきた動物は1匹もいないだろう。しかし、逃げる事も出来ず芸を身につけて披露する。その芸を身につけるために鞭で叩かれる。動物達は自らの意思でサーカスにやってきたのでもなければ芸を身につけたいと考えて身につけるわけではない。だから、人間が鞭を振るって痛みをもって調教していくのだ。 しかし人間はどうだろうか。人間は自らやりたいと思ってスポーツを選ぶ。怠ける事もあるだろう。結果は輝かしい事もあれば黒星もあるだろう。しかし全てが自分で選択出来る脳を持っている。それが人間だと思う。 しかし、団体において過ちを犯す事もある。その際、話し合うなり、退場してもらうなりの方法は色々あるのではないか。 人には判断する能力がある。しかしその能力には個人差があるし、決断を下すのに時間差もある。その結果、チームが負けたとしてもそれもまた周囲の決断の一つであろう。(決断を遅い人を置いていく、フォローするなど何らかのアクションを起こしたか否か) 叩いたり蹴ったりする事で技術が向上する事はない。 精神論はあるかもしれないが、本当にそれが本人の為になるという根拠はどこにあるのか。まして、ミスを犯すなりしたとしてもそれを正すのに何故叩くのか。要は相手の能力を尊重してないから叩けるのではないか。 スポーツの勝ち負けで負ける事、怠ける事、リタイア等する事は決して罪ではない。「体罰」とは罰せられるという漢字が含まれている。 体罰を与えられた生徒は一体、何を罰せられたのだろうか。 犯罪を犯した者が罰せられるのはわかる。しかし、それ以外で体罰を行う事が私には解せない。それも言葉が分からない乳幼児や動物出ないのだから。 線引は難しいだろうが、体罰とは犯罪者等に与えられるものだと思う。 本人の向上のために与えるというのは、体罰を与える側の言い訳に過ぎない。もっと別の理由が隠されているようにならないのだが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.01.30 22:36:54
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