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2005.04.05
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カテゴリ:黒人文化
1968年4月4日、初めてのアフリカ旅行から戻った
ジェームズ・ブラウンは、ボストン・ガーデンでの5日
の公演に備えて、つかの間の休息をとっていましたが、
その日の午後のニュースを聞いて、飛び起きます。マー
ティン・ルーサー・キング牧師が、黒人清掃労働者たち
が始めていた差別撤廃のためのストライキを応援するた
めに駆けつけたメンフィスで、殺されたのです。

終日モテルにいて、スタッフたちと今後の作戦計画を練
っていたキング牧師は、友人の牧師から招かれていた夕
食にむかうために、2階のバルコニーの廊下に出たとこ
ろを狙い撃たれて倒れました。右あごに穴があき、血が
勢いよく流れ出して止まりませんでした。

「理由もなく偉大な人間が殺され、しかもそれがたまた
ま自分の友達だったら。喪失感も2倍になる。マーティ
ンの場合、国中が同じ気持ちだった。彼を失って、国が
最も偉大な友人を失ったようだった。アメリカの最高の
友――それがマーティンだ。そしてアメリカ人の多くは
、それにさえ気づいていなかった」

ショックから立ち直ったブラウンは、電話をかけます。
キング牧師の暗殺が、暴力、放火、死人といった、誰の
利益にもならない事態に、発展することが予期されたの
で、それを避けるために何かできることはないだろうか
と、友人に問いかけたのでした。

それから、ノックスビルとボルティモアの自分のラジオ
局に電話をかけ、生放送で「平静を保つことでキング牧
師の名誉を称えろ」と呼びかけ、ラジオ局のマネージャ
ーたちに、このテープ・メッセージを事態が落ち着くま
で何度も流すように指示しました。

その翌日の金曜日、テレビの特別番組のために録画撮り
をしてから空港に直行し、ボストンに飛びました。その
夜は誰もが最悪の暴動を予測していたので、コンサート
をやれば、その夜ストリートに出る人を少しでも減らせ
るし、客に状況を説明できると思ったのです。ローガン
空港には、ボストン初の黒人市議会議員のトーマス・ア
トキンスが迎えにきていました。ケビン・ホワイト市長
のリムジンでボストン・ガーデンに向かいながら、ブラ
ウンはアトキンスから状況報告を聞かされます。

その日の午前中、市議会では、その夜のブラウンのコン
サートを実施させるべきかどうか議論になっていました
。市長は中止しようとしましたが、アトキンスは「そん
なことをしたら、市庁舎まで破壊されてしまうほどの暴
動になりかねない」と主張。その時、コンサートをテレ
ビで実況中継するアイデアを思いついたのでした。そう
すれば、みんなが家にいてショーを見ることができるし
、コンサートに来る人も締め出されずにすむ。アトキン
スは、ブラウンのニューヨークの会社に連絡を取り、テ
レビ放映を承諾するように働きかける一方、市長室は、
地元の公共テレビ局WGBHを説得して、コンサートの
ライブ中継の準備をすすめ、市長は、ブラウンの返事が
来る前に、コンサートのライブ中継を記者発表し、地元
のラジオ局WILDは、家でジェームズ・ブラウンをテ
レビで見るよう市民を説得するテープを流していました


リムジンがボストン・ガーデンに着くと、ショーがテレ
ビでライブ中継されると聞いた人々が、チケットの払い
戻しを求めて集まっているのが見えました。ブラウンは
怒ります。
「俺の許可なしにテレビ中継を勝手に発表し、そのおか
げで今じゃコンサートまで台無しだ。少なくともコンサ
ートに来る1万5千人の若者には、俺の主張を伝えられ
るばずだった。それなのに、誰もいない劇場でステージ
だ。この経費も全部かぶらなきゃならないのに、別の特
別番組の契約上、テレビ放映すらできないんだ」
思い直したブラウンは、今晩ここでテレビに出られるよ
うに、契約条項をはずしてもらうよう手配し、アトキン
スは、市長に電話し、入場料収入の減収分は市の予算で
保証することで話がつきます。

テレビ中継の発表が行き渡ったにもかかわらず、ガーデ
ンには2千人がやってきました。夜の8時頃、ショーは
始まりました。アトキンスがブラウンを紹介し、ブラウ
ンが市長を紹介しました。

市長は「今晩私たちみんなが集まったのは、偉大なスタ
ーのコンサートを聴くためです。が、同時に、最も偉大
なるアメリカ人、マーティン・ルーサー・キング・ジュ
ニア牧師を称えるためでもあります。24時間前、キン
グ牧師は、私たち黒人と白人みんなが仲良く、暴力なし
で、平和に暮らせるよう、その身を犠牲にしました。ど
うかみなさんも協力してください――キング牧師の夢を
ボストンで実現させるのです。たとえ、ほかのどこのコ
ミュニティーが何をしようと、私たちボストン市民は、
キング牧師を称えて平静を保ちましょう」と言いました


ブラウンは「俺もその意見に賛成する。キング牧師の名
誉を汚すようなことは慎もう。家にいるんだ。あなたた
ち若者は、特に、自分のすることをよく考えてほしい。
キング牧師がなんのために戦っていたかを考えてほしい
。自分のコミュニティーを破壊するような方法でキング
牧師に報いるのだけはやめよう」と話しました。

ショーの間、ブラウンは、曲の間にキング牧師のことを
話し、歌の題名を言う時にも、キング牧師に関連したち
ょっとした話を語り、ブラウン自身の人生やブラウンの
出身地の話をしました。マーティンの思い出話をしてい
た時、ブラウンは、涙がこぼれ、すべてが沈み込むよう
な感じを覚えましたが、気を取り直し、ショーを続けま
した。

「俺はいまだにソウル・ブラザーだし、俺があらゆる点
で一流になれたのも、みんなのおかげだ。俺はラジオ局
の前で靴磨きをしていた。それが今ではラジオ局を所有
するまでになった。俺が、そのラジオ局を買うまで、ソ
ウル・ミュージックをまったく流さない局だった。これ
がどういうことだかわかるかい? これこそブラック・
パワーだ」

ブラウンは、自分の音楽の力強さがリズムにあることを
発見していました。すべての楽器を、ギターでさえ、ド
ラムスのように扱いました。ギターのスクラッチ、速く
叩きつけるベース、それにクライド・スタブルフィール
ドが叩き出すファンキーなリズム。ブラウンは、大ヒッ
ト曲をすべて歌い、信じられないほど優雅で驚くほど機
敏なダンスを披露し、渾身のステージングを見せました


ショーの間、市長は舞台裏で市の様子をモニターしてい
ました。警察がロックスベリーの通りはほぼ無人だと伝
えました。問題は、これっぽっちもありません。ふだん
より人が少ないくらいでした。警察は、気味が悪いとも
言いました。

ショーはフィナーレに入り、ブラウンが膝をがくっと崩
して「プリーズ、プリーズ、プリーズ」を歌うと、フェ
イマス・フレイムスのメンバーがブラウンの背中を叩い
て、マントを肩にかけます。ブラウンは立ちあがり、そ
してもう一度、膝を落とします。同じアクションを繰り
返すにつれて、歓声は高まっていきました。曲が終わる
と、数人の子供たちがステージに駆けあがり、さらに数
人がこれに続き、ブラウンに握手を求めてきました。す
ると、これに動揺した警察官たちが、子供たちをステー
ジから排除しようと動き出しました。警察の介入がテレ
ビで放映されれば、その晩の努力が水の泡になるのは見
えていたので、ブラウンはバンドを止めて、警察に後ろ
に下がるよう頼みました。
「ちょっと待った、待ってくれ。止まれよ。そんなのは
おかしいぜ。待てったら。そういうやり方はあんまりだ
ろう。おれの仲間なんだ。おれに話をさせてくれ」

そう言うと、ブラウンは子供たちに語りかけました。
「いいか、よく聞くんだ。おれたちはみんな黒人じゃな
いのかい? 君たちはすべてを台無しにしようとしてい
る。君たちのせいで、おれは自分の肌の色を恥ずかしい
と思うかもしれない。黒人であることを恥じてしまうか
もしれないんだ。もしも自分の仲間を誇りに思えなくな
ったら、俺にはもう、どうしていいのかわからない。そ
んなのはおかしいだろう?」
じっと耳を傾けていた子供たちは、ブラウンと握手を交
わして、ステージから去っていきました。ブラウンは最
後に「アイ・キャント・スタンド・マイセルフ」を熱唱
して、ショーを終えました。

ライブのショーが終わるとすぐに、テレビ局はライブ中
継の再放送を深夜12時まで続け、危険は去っていきま
した。ボストンは、その週末をほとんどなんのトラブル
もなく終えることができたのです。

一方、ワシントンDCでは木曜日と金曜日の夜、町中が
略奪と炎に包まれました。外出禁止令は無視され、最初
の2晩だけで300件の火事が出て、焼かれたビルは崩
れ、怪我人を出し、2千人以上が逮捕され、木曜日に1
人、金曜日は4人が死亡。ビルは煙をあげ、道や店には
割れたガラスが散乱。黒人たちが自分の店を守るために
書いた「ソウル・ブラザー」の文字は、なんの役にも立
たず、黒人の店も略奪にあっていました。

土曜日。市長の要請に応えて、ブラウンは、ワシントン
DCの市庁舎からテレビの生中継で語りかけました。
「みんなの気持ちはよくわかる。俺も同じように感じて
いる。だが、物を壊したり、焼いたり、盗んだり、略奪
したりしても、何も達成できない。テロ行為は止めるん
だ。団結するんだ。焼くんじゃない。子供たちに学ぶ機
会を与えるんだ。家に帰れ。テレビを見るんだ。ラジオ
を聴くんだ。ジェームズ・ブラウンのレコードを聴け。
この国の人種問題に対する本当の解決法は教育だ。焼い
たり殺すことじゃない。準備をするんだ。資格を持つん
だ。何か所有するんだ。偉くなれ。それがブラック・パ
ワーだ。マーティンは、俺たちのヒーローだ。俺たちに
は、真の兄弟という彼の夢を実現する義務がある。暴力
では、この義務は果せない」

ブラウンは自伝のなかで、こう語っています。
「俺は喜んですべての町で呼びかけただろう。できれば
、もっとたくさんの町を回りたかった。あの破壊から得
られたものは何もなかった」
「もし誰かが俺の言うことを聞くとすれば、それは今だ
。これだけ多くの客を目の前に、世の中であらゆること
が起こっているのに、何も役に立とうとしないのは恥ず
かしいことだ」

1969年9月、「セイ・イット・ラウド、アイム・ブ
ラック・アンド・アイム・プラウド」をリリースすると
、ブラウンは、他人種のファンを失いました。ブラウン
のコンサートの人種構成は、ほとんどが黒人になったの
です。

ピーター・ギュラルニックは、書いています。
「ソウルを取り巻く空気は、すでに変わっていた。そこ
には敵意という新たな感覚が入り込んでいた。敵意に関
しては、それまでも常に意識していたが、これほど顕著
なものは今回が初めてだった」。






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Last updated  2019.05.17 10:36:44
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