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カテゴリ:映画・テレビ
7月18日、映画・「愛を読むひと」を観てを書き込みましたが、今回はその2です。 (上の画像の説明・マイケルとハンナの朗読のシーンです。映画「愛を読むひと」の公式サイトの画像をスキャンしました。) (●映画「愛を読むひと」の公式サイトは、こちらから。) ◎ハンナの決意 テープを送り続けるマイケル。彼の想いを受け取り、彼女もある決意を実行したのです。 彼女は、字を読むことも書くことも出来ませんでした。そして、それをあれほどまでに隠し続けたのでした。しかし、彼女の決意は、その字を学ぶことでした。 映画では、このシーンはほんのわずかでしたが、原作にも刑務所を訪れたマイケルに、女性所長がこれについて語るシーンがあります。 「彼女はあなたと一緒に字を学んだんですよ。あなたがカセットに吹き込んで下さった本を図書室から借りてきて、一語一語、一文一文、自分の聞いたところをたどっていったんです。.........」 このようにして、マイケルが初めてテープを送ってから、4年目にハンナは文字が書けるようになったのです。マイケルは彼女の手紙を読み、「彼女は書ける、書けるようになったんだ」歓喜に満たされます。 (上の画像の説明・マイケルがハンナの手紙を読むシーンです。映画「愛を読むひと」の公式サイトの画像をスキャンしました。) しかし、彼女を誇らしく思うと同時に、その努力が遅すぎたことや、彼女の人生が失われてしまったことを思って悲しくもあるのでした。 私は思います。確かに遅かったかも知れません。しかし、遅くてもやらないよりは、ずっと立派です。ハンナの勇気ある行動に胸を打たれました。 最初の挨拶のあと、次の手紙が一定の間隔で届くようになりました。マイケルからはハンナには何も書きませんでした。しかし、朗読テープはどんどん送り続けたのでした。彼が1年間アメリカに滞在したときも、そこからテープを送ったのでした。 字を読めるようになったハンナにはカセットはもう必要ないのではないか、と頭を悩ませることはなかったし、彼女が自分で読むことは構わないし、朗読こそがマイケルの流儀だったのです。こうすることが、彼女に対して話しかけ、ともに話をする方法だったのです。 挨拶とカセットを交換するのがマイケルにとって通常の、親しみ深い状態でした。これはマイケルにも、気楽でエゴイスティックな関係だと分かっていたのですが、ハンナがそうした緩やかな形で関わっている限り近くて遠い存在で、その状態をずっと続けていいとマイケルは思っていたのでした。 しかし、マイケルは何故一度もハンナに手紙を書かなかったし、刑務所を訪れなかったのでしょうか。原作を読んでも、映画を見ても、私はまだよく理解出来ません。きっと、それほどまで、ハンナが犯した罪への怒り、彼女を助けられなかった悔恨、ハンナが、マイケルの心と体に残していった傷跡は深かったのでしょう。 (上の画像の説明・マイケルとハンナの夏の自転車旅行で、ハンナが自転車に乗っているシーンです。映画「愛を読むひと」の公式サイトの画像をスキャンしました。) ◎ハンナの死 ハンナは服役後18年目に、恩赦が認められました。その知らせが、ハンナと唯一人、コンタクトをとっていたマイケルに届きます。マイケルは、出所後の安らかな生活の準備をして面会に行きます。 「本はたくさん読むの?」「まあまあね。朗読してもらう方がいいわ」 ハンナはマイケルを見つめて言います。「それももう終わりになっちゃうのね」「どうして終りにする必要がある」 そして、マイケルの結婚のことなどを話しした後、「来週迎えにくるよ、いいね?」「ええ」「静かに来こようか、それとも少し賑やかに、愉快にしょうか?」「静かな方がいいわ」「分かった。静かに。音楽もシャンペンもなしで迎えにくるよ」 二人は立ち上がり、お互いを見つめあいました。「元気でね、坊や」「君も」 そうやって二人は、別れの挨拶をしたのでした。しかし、出所日の朝ハンナは死んでしまいます。夜が明けるころに首を吊ったのでした。 刑務所に着いたマイケルは、女所長のところへ案内されます。そして残された遺書を知らされます。それは、教会堂の火災を生き延びた娘さんにお金を届けてほしいとの、マイケルへの依頼文でした。 ハンナが自殺したこと、それはマイケルの意識がずっとハンナから離れなかったように、獄中のハンナを生かしていたのは、実は彼の「朗読」そのものだったのです。それが終ってしまうことを知ったとき、もはや彼女は生きる意味がなくなってしまったと思ったに違いありません。 ◎罪は誰のものか 忘れ難い場面がありました。二人の夏の自転車旅行の時、小さな村の教会に入ったハンナはそこで子供たちが歌う聖歌を聴いて涙を流しました。裁判の過程で、教会は彼女にとって罪を犯した重要な場所であったことが分ってきます。 看守をしていたとき、西へ向かって囚人たちを移動させていました。そして、何百人もの女性からなる囚人をある村の教会堂の中に閉じ込めていたとき、その夜の空襲で教会堂が火災になり、教会堂に閉じ込められた女性たちは焼け死んでしまったのです。被告人たちは、教会堂の扉を開けてやることが出来たはずだのに、それをしなかった。というのが起訴理由だったのです。 だからこそ教会で涙を流し、彼女は平和な時代になっても、自分が犯した罪を忘れなかったのです。そして、その秘密は自分を慕うマイケルにも言えなかったのです。 もう一つの場面です。教会堂の死を唯一人生き延びた女性が、ニューヨークまで訪ねてきたマイケルに、ハンナのお金を受け取ってそれをナチ被害者のために使えば、彼女を許したことになるから受け取れないと拒否するシーンです。ユダヤ人がナチに抱く「あなたたちのしたことは決して許さない」という姿勢がはっきりと出ていました。服役中に学んで成長したハンナは、精一杯罪の償いをしようとしたのですが許されなかったのです。 しかし、救われる場面がありました。彼女は、ハンナのお金を、ハンナの名前でユダヤ人識字連盟に振り込むことを許してくれたのでした。そして、お金の入っていたお茶の缶を、私は子供のころ、こんな宝物を入れる缶を持っていました。その思い出につながるものとして、「私は、この缶だけいただいておきます」と言ってくれたのです。 ハンナの精一杯の罪の償いは、許されなくても、認めてもらえたことに救われた気持ちになりました。 ナチの負の遺産を、どう伝えるのか、戦争犯罪と、どう向き合えばいいのか、ハンナは戦犯として裁かれましたが、ユダヤ人虐待の実態を知りつつ何もしなかった一般人も多かったと思います。「あなたなら、どうしましたか?」裁判の中でハンナがつぶやくこの問いを、映画は改めて、私たちに問いかけているのです。 映画のエンディングは、原作とは違った終り方でした。映画ではマイケルが自分の娘と共にハンナの墓を訪れ、ハンナの物語をする場面で終ります。ハンナの物語はのちの世代に語り継がれるのです。自国の歴史をどのようにのちの世代につなげていくのか。この映画のポイントの一つは、恐らくこのエンディングにあると思いました。 ハンナ役を演じた、ケイト・ウィンスレットは記録的大ヒット作「タイタニック」のヒロインであることは有名ですが、あれから10年、戦争という極限状態において人間性とは、人間の尊厳とは何かを問いかけるこの映画において、全編を通じて毅然たる美しさを秘めた見事な演技を見せてくれました。本年度アカデミー賞主演女優賞の受賞納得です。 尚、原作の「朗読者」は、日本の文庫本のステータスシンボルと言っても過言でない、"新潮文庫の100冊"にラインアップされています。258頁の小編ですが、小説の持つ素晴らしい力を実感できる感動作です。定価540円。未読の方は、是非お勧めです。 (上の画像の説明・新潮社、本作の原作「朗読者」(ベルンハルト・シュリンク、松永美穂 訳)の表紙カバーをスキャンしました。) (上の画像の説明・フリー百科事典「ウィキペディア」の「愛を読むひと」のハンナ役を演じたケイト・ウィンスレットの画像をコピーしました。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.07.19 15:43:09
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