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カテゴリ:シルクロード
8月5日、A新聞社主催のカルチャースクールの今期講座(21年7月~9月期)の第3回を受講しました。今回のテーマは、「項羽と劉邦、楚と漢の戦い」でした。 (上の画像の説明・劉邦の画像です。カルチャースクールの今回の資料、6頁の画像をスキャンしました。) ◎漢中に封じ込められ劉邦、機会を窺い項羽討伐にのりだす 紀元前206年、鴻門の会で、項羽と劉邦のあいだに一応の和解が成立しました。 このあと、項羽は諸侯群雄の第一人者の地位を占め、秦国滅亡後の新たな覇者として西楚の覇王と称し、彭城(江蘇省銅山県)を都に定めるとともに、秦討滅に功のあった諸侯を各地に分封しました。 この時、劉邦が封じられたのは、当初の約束とは違い、関中ではなくその西方(地図上では左側)の地の漢中でした。関中は四方を険阻な山河に囲まれた要害の地であり、土地も肥えていました。それに対し、漢中は交通不便で山岳地帯の多い一種の僻地でした。項羽は、「漢中もまた関中の一部である」と強弁しましたが、劉邦にしてみれば島流しにされたような気分でした。 この故事がもとになり、「左遷」という言葉が、生まれたとも言われています。 しかし、当時の劉邦は項羽の意向に逆らうことはできませんでした。やむなく、劉邦は一族、諸侯をひきつれて漢中に赴任しました。それによって、劉邦は漢王と呼ばれることになります。のちに劉邦が建国する漢王朝の国名も、これによります。 もちろん、劉邦は漢中にずっと止まっているつもりはありませんでした。劉邦の眼は、つねに中原の動向に注がれていました。 項羽討伐の機会を窺っていた劉邦は、主筋の義帝殺しで高まった項羽の不人気を利用し、ついに軍事行動に出ました。 (上の画像の説明・楚と漢の位置図です。カルチャースクールの今回の資料、1頁の資料の一部をスキャンしました。) ◎彭城奪取成功の気の緩みから敗戦を喫し、窮地に陥った劉邦 劉邦の最初の攻撃目標となったのは、関中でした。 劉邦は、反乱軍討伐のため斉に出陣した項羽の留守をつき、西楚に攻め入ると、項羽の居城の彭城を奪取しました。ただ、ことがあまりうまく運びすぎたために、劉邦は心に油断を生じました。麾下の将兵が城内の財宝、美女をわがもののとし、毎日のように宴会を開いて大騒ぎするのを黙認しました。 こうして軍規が弛緩したところへ、斉の攻撃を部下に任せた項羽が急襲し、劉邦の軍は見るも無残な大敗を喫し、劉邦は数十騎の兵に守られ、辛うじて戦場を離脱しました。しかし、この敗戦のツケは高くつき、劉邦は以降しばらく積極的な作戦行動をつつしまなくてはなりませんでした。 劉邦が逼塞している間、項羽の側背をついて巧妙な戦いぶりを展開し、劉邦の再起を助けたのは韓信でした。 韓信の戦さ巧者ぶりは劉邦も高く評価するところで、百万の軍をたばねて戦えば必ず勝つ韓信の才略には自分も及ばない、とのちに述懐しています。 韓信もまた、劉邦とよく似た貧しい庶民の出身で、若いころは無頼の徒と交わって定職を持っていませんでした。 あるとき、ならず者に脅かされると、相手にならないほうがいいと判断し、言われるがままに、腹ばいになってその股の下をくぐったとされています。これが、後世、負けるが勝ちという意味で広く用いられる「韓信の股くぐり」です。 (上の画像の説明・韓信の画像です。カルチャースクールの今回の資料、1頁の画像をスキャンしました。) ◎劉邦に才能を見込まれた韓信、井ケイ口の戦いで発揮したその手腕 はじめ、韓信の能力を認め、彼を登用したのは項羽陣営でした。しかし、項羽は自らを恃むところが強かった人物だけに、韓信の才は利用したものの、韓信の献策は一切採りあげようとしませんでした。そこで、項羽に失望した韓信は劉邦のもとに身を託したのでした。 劉邦の陪臣は、この韓信を「国士無双(国に二人といない逸材)」だと絶賛し、劉邦はこれを受けいれて大将に起用したのです。 劉邦の賭けは成功しました。以降、韓信は紀元前204年、わずか1万の軍勢を率い河をうしろに「背水の陣」をしいて、趙の20万の大軍を井ケイ口の戦いで撃破したのをはじめ、向かうところ敵なしの大活躍をつづけ、劉邦の天下統一の立役者になったのです。 この韓信の故事がもとになり、以降、決死の覚悟で事にあたることを、「背水の陣」というようになります。 韓信らの活躍によって、劉邦の支配領域はしだいに拡大し、紀元前202年、ついに項羽は追いつめられ、垓下の砦に籠城する羽目になります。 次回のスクールは、この垓下の戦いをテーマにした、項羽・虞美人との別れと四面楚歌です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.08.17 06:07:17
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