滝の城・岡の城山〜繋ぎの城〜その1
H29.10.28訪城
滝の城
[住所]埼玉県所沢市大字城
[比高]25メートル
[アクセス]武蔵野線「東所沢駅」より徒歩25分
岡の城山
[住所]埼玉県朝霞市岡三丁目
[比高]14メートル
[アクセス]武蔵野線「北朝霞駅」より徒歩25分
滝の城、岡の城山は共に北条氏の遺構と伝わっている。まず最初にこの2城と関係あると思われる城を見てみよう。
国土地理院地図より作成
滝の城は北条氏照が岩付領と滝山領の境目の城として利用したと考えられる。
地図に出して見ると
ちょうど中間であることがわかる。
滝山城から岩付城に行くには
水路が陸路の二つの選択肢がある。
水路としては、
滝山城の北側の目の前を流れる多摩川をくだり
江戸城を経由して岩付城に行くもの。
陸路としては、
多摩川を渡って滝の城経由で行くもの。
道路は簡単には整備することが出来ないため、
特に街道名が残っている道路は
かなり昔まで遡ることができると思う。
一方で水上交通路についてはどうだろうか。
関東平野では徳川家康の江戸入府以来、
利根川が銚子に流路変更されたりと
巨大土木事業を次々と行ってきたため
流路を地形図などから想像するしかない。
船でやり取りできる水量があったのか、
川幅はどのくらいだったのか、
という事は全然わからないのだ。
余談は置いておいてまずは滝の城の立地。
国土地理院地図より作成
南側を流れる柳瀬川の段丘崖を利用して築城された。
距離的には岩付より河越の方が近いので、
永禄年間(およそ1560年代)の滝山城との関係より、北条氏綱の河越城攻略戦、
さらには北条氏康の河越夜戦(1546)に利用されたのでは、という見方もできる。
小田原北条氏が河越を攻めるには、
江戸を取らないといけないのは明白だ。
1524年に江戸城は北条方についたとされる。
そして江戸と河越の間には、
太田道灌が整備したとされる河越街道がつながっているのだ。
検索をかけてみるとこの街道は県道109号、
滝の城のすぐ脇に関越道の橋があるが、
その次に隣の橋で柳瀬川を渡っている。
当時は恐らく渡し船を利用していたはず。
となると船着場を求めて街道から2,3キロずれるということもあったんじゃなかろうか。
この縄張り図は滝の城保存会が作成されたもの。
城山神社に置いてある。
城の脳みそたる本郭が南の川に面しており
北方面に城域が広がっていっていることから
北条氏の城、それも攻めの城とわかる。
川で領地が分けられている場合、自領側に
川を前面に置いて川から離れたところに本郭を置く城が考えられる。
滝の城ではそれと真逆に
川を渡った先に川を背にして築城されているのだ。まさしく橋頭堡と呼ぶにふさわしいw
わからない人は、墨俣城的な役割をしていたと考えてください。
縄張り図には「清戸道」の記述があるが
この道が文書に出て来るのは明治以降らしい。
河越街道の脇道として中世にはすでに存在していた可能性もある。
さて、縄張り図を見てみると
本郭を中心とした空堀で複雑に分けられた内郭と、
方形を基本とした1.3ヘクタール程の外郭
の2つに分けられる。
「関東の名城を歩く」では、
後から外郭を追加して防御を強化した、とある。
となるといつ、外郭を追加したのだろうか。
恐らく河越城攻略戦の最中であろう。
江戸城攻略(1524)から河越城攻略(1537)まで
足掛け13年もかかっているのだ。
食糧庫としての利用、兵の入れ替えのための基地などさまざまな考えられる。
撮影地点
地点A
鳥居の手前より撮影。
前日までの台風の影響だろうか。
水が溜まっている。
地点B
二重堀、との看板より撮影。
全くもって二重の要素もないうえ、
なぜかここだけ土塁に切れ目が出来ている。
「名城を歩く」によると、
現在の道路が一重目の堀で
その外に土塁&堀があったようなのだ。
一番外側の土塁&空堀は外郭土塁に接続しているため後から追加されたものだろう。
地点C
本郭南西側の横堀。深さ12〜3の幅17〜8くらい。
地点E
本郭北西側の横堀より橋脚台?を撮影。
車で訪れたら感じるであろうが、
現在の本郭へ車で行けるルートは
間違いなく遺構を破壊して通っている。
これだけ複雑な縄張りの一方で、
この道は本郭まで直線なのだ。ありえない。
本来、本郭に入るためには
馬出より橋で渡るしかなかった。
橋は神社裏にかかっていた。
地点F
3郭より馬出にかかる土橋を撮影。
ナルホド、真横から狙い撃ちだ。
地点G
3郭より堀底道を撮影。
この横堀は竪堀となり河原まで続く。
このように見ていくと横堀を多用した複雑な縄張りで、北条氏らしさをよく出している。
その2に続く。