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テーマ:ひとり言・・?(18172)
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いじめ。いじめを無くすためには、などをいうつもりはない。人をいじめるほど暇がないならそんなのはない。
金魚を数匹飼うと必ずといっていいほど、いじめられるのがいる。突っつかれたりして、次第に弱くなって死んでしまう。ただ、飼い主が他の水槽にうつして単体で買う場合は長く生きられる。 このことを人間にあてはめるとどうだろうか。あくまで私個人の考え方ですが(苦情や批判は匿名希望でもうけつけます)、弱いものや嫌われ者が集団からいじめをうけるのは水槽も教室も一個の組織も同じだ。そこで、みんながみんなで弱いものをいじめるのは本能だろう。肉食動物が足の襲い草食動物の子供を狙うのとおなじだ。ただ、野生生物のそれは生活のためだからあたりまえだ。しかし、金魚はどうだろう。餌を食っていてもつっついてみたくなる。そう。ストレスだ。水槽の広さに対し、混泳する金魚の数が多いため縄張り確保の行動だ。サル山の場合はボスがいてそれが支えでなりたつ。 人間は金魚とサル山の融合体だと思う。自分は大将になりたい。自分の考えを通したい。だけど、自分より力のある奴にははむかわない。悪いところをみせない。金八先生でも、女王の教室でも、あれだけやっても自分を客観視できないのは、これまで家庭での生活にすべてがある。三つ子の魂百まで。とあるが、三つまでの記憶はその頃の写真を見ても、写真の自分に記憶がよみがえらない。それはなぜか。ストレス(刺激)がないから。二歳の記憶を持つ人間は少ないと思うが、こういうのはどうだろう。二歳のときに犬に襲われた。そして、それからその子が四歳になるまで犬の存在をあたえないようにした。四歳を迎えて犬を見せる。どうなるだろう。そういったストレスはよみがえるのだと思う。三歳までは家族親戚にかわいがられ、ちやほやされる。そうされれば本人は嬉しいし、家族もうれしい。ただ、そこで、わるいことをしてもかばうか、見ぬふりをして育ってしまうとどうだろう。叱られるストレス、刺激がなく、恐怖が蘇ることがない。もしくは、恐怖があっても、だれかにしがみつけば、その人が何らかの力で解決してくれる。と、そういう習慣がついた人間は将来どうなるだろうか。悪い政治家がみんなを裏で口止めし、悪い教育者が裏で口裏を合わせて嘘のことを通してしまっている。そういうことになる。悪いことを他人に言われるとムカつく親が親のうちは子供は将来一人ぼっちのピノキオ君になってしまう気がする。ここいらで、変えていかないといじめる側にたっても、られるほうになっても、末恐ろしい。 少年犯罪と騒ぎ立てるが、まず、大人の犯罪をなくしてから言わないと説得力がない。子供の嘘はがまんできるが、大人になってからの嘘は虚偽罪となってしまう。 振り込め詐欺もは相手を同情させて、だまし金を奪い取る。心をのっとられる。魔術のようなものだ。 いじめた側に意識がなくとも、いじめられた側に被害妄想だろうと、そういう意識があればいじめにあてはまると私は思う。ただ、問題なのは、あくまで、本人対本人がそう思えばのことで、周囲からいじめと判断するのは早計だ。だから、その辺の判断は難しい。 学校の先生にしてみれば、いじめをみつけても、それを解決しようとしても、いじめたほうの子の親が強気でむかってくるにちがいない。そして、子供が認めても、親が無理矢理口裏あわせをし、認めさせない。弁護士をたてたあとに答えが一変する大人の犯罪と同じだ。 報道する側は何を書いてもいいが、おもしろおかしく編集するのではなく、解決策を代議士を通じて発表するとかしたほうがいいような気がする。教師にばれないようにするのが、いじめの鉄則であるし、ばれたら素直に認めないのがいじめをする人間だから、学校の管理といわれてもこまる気がする。いじめた生徒の親の顔をテレビで公表するほうがよほど効果が出るし、家庭崩壊するくらい生活管理に親は力をいれると思う。 体造りと同じで、飯を食うところでいじめをするか、されるか、はたまた、見てみぬふりをするかの人間になると思う。嘘をつくのがあたりまえのところに育った人間と、嘘は絶対にいかん、いかん、いかん、いかん。どっちも同じ気がする。ようは伸縮。私は時に嘘をつき、ときに正直に。というふうに、感情を素直に表し、カッコいい人間をみつけてまねたり超えたりして、金と栄誉におぼれずに、気がついたらそういうのや、人が集まってくるというふうになっていればいいと思う。それにはそう意識をするのでなく、ガムシャラに一生懸命でなくっちゃあならないと思う。どうか、かっこいいものをみてそれを追いかけてもらいたい。テレビっ子のこの世の中、五歳、まではほとんどが正義のヒーローの素質があるはず。どうか、嘘をみやぶる子をしからず、みやぶられた親は改善を意識していただきたい。それをしないと、生活にストレスがでる子供は、嘘に合わせて褒められるのが習慣になってしまう。そうなると、いじめられるか、いじめるかの人間になる確率がグンとあがる気がする。そこで、どちらにもならぬよう、巧く立ち回る人間に私は興味をもたない。 「ハウルに心がないですって!!たしかにわがままで、臆病で、何を考えているかわからないわ。でもあの人は真っ直ぐよ!!!」 ジブリをみて自分を客観視して、そして、改善を。 大人、つまり親がそのままのかぎり絶対にいじめや、学校の立場つぶれは今後増してくる。私はその逆を、川をのぼる鮭のごとく傷だらけになっても次世代に期待をするつもりだ。期待、呼んで字のごとく、その時期を信じて待つしかない。 こういうことにうまく話だけあわせて相槌をうつ人がいるというのは私の被害妄想だろうか。その人間の現状をみてありのままに、つい思ってしまうのだが。 いじめ、と、ぐれるの違い。それはない。どちらも、親やへっぽこ先生に愛想をつかす人生の行事なり。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年11月06日 22時42分34秒
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