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みなさん、はじめまして。高樹 涼です。
このページでは、本(主に小説)を読むこと、映画を見ることをとおして、考えたことを語っていきたいと思います。そのなかで、表現すること(主に書くこと)について、皆さんと考えていける場にできたら嬉しいです。 本日はまず第1回目として、映画「オペラ座の怪人」から語りはじめます。 通常、映画を見たり、小説を読んだりするとき、登場人物の誰かに感情移入してしまうことが多いです。 昨年劇場で「オペラ座の怪人」を見たときには、ラウルに感情移入していた記憶があります。なぜ、そうなったのか今詳細を思い出すことはできませんが、たぶんクリスティーヌの美声と魅力に惹かれていくラウルに共感するものがあったのだと思います。 先日DVDであらためて「オペラ座の怪人」を見たのですが、その時は怪人ファントムに感情移入してしまいました。最初に見たときは、ファントムにはまったく共感できなかった、のにです。 そのとき私はヴィクトル・ユーゴーの「ノートルダム・ド・パリ」、あるいはウォルト・ディズニー・ピクチャーズの「ノートルダムの鐘」を同時に思い浮かべていました。 「オペラ座の怪人」も「ノートルダム」も、いずれも醜い男の恋の物語であり、ラストの醜い男の切ない気持ちに共感を覚えてしまったのです。 これも自分自身が身体に障害があるからだと思います。普段はそのことについてはほとんど気にはしていません、というより、気にしないようにしているといった方が正しいかと思いますが、気にしていないようにふるまっています。 でも、恋愛しかも片思いという切なさは、私をはじめ多くの障害者が、その障害ゆえに感じていることでもあると思います。 物語の世界では、醜い男(あるいは女)の恋が報われるものもあると思います。ちょっと今、そのタイトルは思い浮かびませんが(どなたかご存じの方がいましたらおしえてください)、「オペラ座の怪人」では醜い顔に残忍な心を持った男が報われない恋をし、「ノートルダム」では身体は醜いが、けれども心は清らかな男が恋をしますが、結局報われることはありません。 ここに私たちはおそらくリアリティーを感じてしまうのでしょう。これこそが現実に一番近いと感じてしまうのだと思います。 白馬の王子のような心も身体も美しい男性、あるいは容姿端麗な絶世の美女と恋をするような物語は、ハーレクイン・ロマンスやおとぎ話の中だけだと多くの人は知っています。そのような恋を思い描いてうっとりすることもありますが、所詮は幻想であり夢物語であることも知っています。 でも、恋愛そのものが幻想であるとも言えます。すべてが美しく輝いて見えてしまいます。たとえ幻想であるとわかっていても、夢を見てしまう。それが人間なのかも知れませんね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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