牛脂焼く網まんべんに浅き春(俳句・TBSプレバト‼︎・お題:焼肉)
牛脂焼く網まんべんに浅き春季語:春浅しお題:焼肉日本は稲作文化の時代が長かったが、意外と肉食の文化も古くからあったようである。「肉食なんでも大図鑑」から紹介する。日本の考古学の時代区分を見ると、最も古い時代は岩宿時代(旧石器時代)で、今から約20万年前から1万3,000年前のこと。このころ、日本列島に人が住み始めたとされていた。縄文時代(約1万3,000年~1万2,000年前)、弥生時代(約2,400年前)、古墳時代(約1,700年から1,400年前)、そして飛鳥時代、奈良時代と時代は続くが、縄文時代に土器が出現したという。このことは煮炊きが始まったことを物語っている。日本列島で、肉食が始まったのは岩宿時代。この時代の日本は非常に寒くて木の実も満足にとれず、肉への依存度が大きく、魚はあまり食べていなかったといえわれている。それでも縄文時代には湖畔近くの縄文遺跡に貝塚があるように、貝類は食べられていた。ところで遺跡から出土した焼け石に付着しているコレステロールを分析した研究では、岩宿人たちが焼き肉をしていたことが実証されているという。縄文時代になると、土器が出現し、弓矢と犬が登場しいてた。いずれも大陸から伝わってきたものであるが、弓矢と犬の出現は狩りの方法を大きく変えたのである。この時代に最もよく食べたのは鹿と猪。秋から冬にかけて、脂がのった時期にたくさんとって食べていたとされている。縄文人の骨に含まれるコラーゲンを分析した研究によれば、本州では肉ももちろん食べていたが、主なエネルギー源は木の実であったことが明らかにされている。これに対して、北海道の縄文人は鯨やオットセイなどの海の動物に頼っていたとのことである。さらに日本人の食生活の特徴である「植物型」は、この縄文時代に基盤ができていた。日本の水田稲作文化は食べるための家畜を持たなかったのが特徴で、これは世界でも日本とアメリカの先住民だけとされ、稲作が始まった弥生時代には食用の家畜はいなかったとこれまでは考えられていた。しかし最近の研究では、実は豚も鶏もいたことが証明された。豚は奈良時代にもいたことが文献から明らかにされているが、平安時代以降になると、文献などからも姿を消し、本格的に豚が食べられるようになるのはさらに遅く、19世紀になってからのことだという。鶏は2,000年前からいたが、一般的には、食べる対象とはされていなかった。鶏は公家の目覚まし時計代りだったことは、以前紹介したとおりである。平安、鎌倉、室町時代にも鶏は文献にほとんど登場せず、本格的に食べられ始めたのは江戸時代になってからのこと。日本で食肉を食べることが広く定着しなかったのは、アジアの中で農業文化の後発国だったため、日本に食用家畜の文化が入りにくかったことと、四方を海に囲まれ、食肉への依存度が低かったこと、天皇による肉食禁止令がたびたび出されたことなどが考えられている。4世紀にはすでに仏教国家が成立していた朝鮮経由で、日本においても仏教が積極的に導入された。その影響で7世紀に、肉食を禁じる天武天皇の勅語が出された。この肉食禁止令により奈良時代以降は日本では肉を食べなくなったというのが、これまでの通説だった。しかし最近になって、実際には盛んに肉を食べていたことが、広島県福山市の草戸千軒遺跡の発掘調査などから明らかにされている。奈良時代には、鹿と猪をよく食べ、大陸からは遣唐使によって牛乳と油を取り入れていた。唐は漢民族と違って牛乳を取り入れていたために、その帰化人を中心に指導者として、奈良時代から平安時代にかけての100年の間、天皇直営の牧場が積極的に開発されたと伝えられている。当時の乳製品として「酪」「酥」「醍醐」という言葉が文献にあるとのこと。肉食が日本で注目され始めたのは織田信長の時代で、南蛮貿易が始まって西洋人が肉食の生活を持ち込んでからのことだとされている。これもごく短期間のことで、キリスト教の禁止や鎖国政策によって、肉食は定着することはなかった。ただし、貴族や武士の支配階級の間では、「薬食い」として、肉食はごくまれに行われていた。この「薬食い」としては、たとえば、彦根藩の牛肉みそ漬けが江戸の将軍家に献上されていたことが知られている。武士の間では鷹狩りが盛んで、野鳥や野兎が獲物だった。動物の捕獲は禁忌とされていましたが、鳥に対しては寛容で野鳥の食用は盛んだったのである。野兎も特別に「薬食い」の対象となっていようである。兎を一羽二羽と数えるのは、兎を鳥と見なすことで食用にしていたからかもしれない。元禄や文化文政の時代には、上方や江戸などの都会に町人文化が花開き、食生活も豊かにぜいたくになった。町人もまた「薬食い」と称して、「ぼたん」「もみじ」「さくら」などの呼び名を用いて肉に親しんでいたようという。参考・引用:「食肉なんでも大図鑑」