カテゴリ:高尾山一口メモ
標高548メートル。旧甲州街道の難所だった峠ですが、北の景信山と南の高尾山からの尾根と鞍部で室町時代末期に八王子城主だった北条氏照が関所を設けました。
その後江戸時代には関所は、山麓に移されてしまいました。1寸8分の小さな仏像が峠に安置されていたのが峠の命名の由来となっています。 現在、この小仏峠にはきのこや山菜、野草の店があり、飲み物が売っているがベンチやテーブルはあるので休むには便利だ。春ならばタラノメ、秋ならばシイタケ シメジなど新鮮なうえに安いので、この季節に訪れたならば是非求めてみては。 さて一方移された小仏関ですが、関所が山麓になってからは本来は駒木野関所が正式の名前ですが、そのまま小仏関と呼ばれていました。現在は手形石と呼ばれる丸石と手付石と呼ばれる平石が残るだけとなっていますが、当時は間口7間半、奥行3間の番所が有り、通行人を厳しく監視したといいます。関所を通る旅人は、少し高い丸石に関所手形を出して乗せ、手前の平石に手をついて頭をさげました。明け六つから暮れ六つまでの間だけ通行が許されました。つまりは午前6時から午後6時まででこの門限は堅く守られました。例外としては、京都または江戸から朱印を携帯した人馬、大阪定番または江戸南町奉行所の証文をもった者に限って夜間査証通行も許可されていました。 また安政6年は庚申縁年として富士山の女人登山を許したため各地から女道者の列は小仏関所へひきもきらなかった。この女手形には特別な処置をとったが祝い金と称して役得金(つまりはそでの下)が多分にあったようだ。 小仏関所は幕府の大きな目となって時代をにらんでいた。旧豊臣浪人のクーデターである由井正雪の事件は未然に鎮圧されたが、江戸から脱出する浪人や江戸に潜伏する浪人の取り締まりは徹底的だった。小仏関所はその捜査本部にあてられ、女の髪を解いてまで過酷な取り調べを行ったという。 関所番は,始め八王子千人同心や関東十八代官の手代がかわるがわる務めていましたが、寛永18年(1641)からは4人に定められた。 関所番のひとりであった落合直亮(なおあき)は、関所番をやめ討幕運動に奔走した人で、小仏関跡の広場に立つ「先賢彰徳碑」は直亮らを称えたものです。碑の裏には与謝野鉄幹が詠んだ 「すがすがし関所の松風にとこしえ聞くは大人(うし)たちのこえ」がきざまれています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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