パクス・ジャポニカ Vol.2

2022/02/02(水)05:26

荒滝山城(長門国)

城跡と史跡(山口編)(62)

時間も場所もトリップして、約半年前の長州は山口県の荒滝山城です。 この日は右田ヶ岳城、敷山城を訪れた後に登ったのが、同じ山陽道でありながら中国山地に近い荒滝山城でした。 山口県では戦国城郭が他県に比べて極端に少なく、右田ヶ岳城や敷山城から荒滝山城までは道のりで約50kmの距離にあります。 時代背景を考えると戦国城郭が少ないのもわかる気がするのですが、防長の戦国時代が他県に比べて短かったことと無関係ではないように思います。 防長の戦国時代は長くても1551年に陶晴賢が大内義隆に謀反を起こした大寧寺の変に始まって、毛利元就が大内義長を功山寺で滅ぼした1557年までの6年間、実質的には1555年の厳島の戦いに始まって功山寺までの2年間だと思います。 この辺りは150年以上にも渡って、扇谷上杉氏や山内上杉氏、古河公方足利氏に小弓公方足利氏、そして北条氏、武田氏、上杉氏、佐竹氏、里見氏と、雄者が覇を競っていた関東とは事情が違うのかも知れません。 誰かが城を築けば、その向かいに城を築くといった具合で、戦国時代の関東では到る所に城郭が築かれていました。 戦国城郭が他県に比して極端に少ない印象のある山口県ですが、近世城郭が他県に比して多い印象もあります。 実はこれもおかしな話で、江戸時代になってから一国一城令が出されたため、山口県には萩城(長門)と岩国城(周防)の防長2ヶ国以外の城があってはならないのですが、近世城郭をやたらと見かけました。 もちろん毛利氏が築いたもので、「陣屋」や「御殿」と言いながら立派な城郭であったり、幕府に無断で築城したものもあったりと、やりたい放題な感じです。 何だか防長の城郭の総括みたいになってきましたが、話は戻って若滝山城、こちらは戦国の山城です。 荒滝山城遠景 標高459mの山頂に本丸があります。 ところで登城道入口付近には廃屋となった旧家が放置してあり、何とも言えないノスタルジーを醸し出していました。 昭和の初期かそれ以前か、建造時期はわかりませんが、手前には井戸があります。 おそらく内部には土間やかまど、そして薪で焚く五右衛門風呂があったりすることでしょう。 旧家を過ぎて登城道を登りはじめると、石積みと曲輪ような削平地がありました。 いかにもそれらしい雰囲気ですが、おそらく後世になって造られたもので、城郭の遺構ではないように思います。 それでも振り返ってみると、山麓の居館跡に見えなくもないので、不思議でした。 先入観を持って見ると、全てが城郭に見えてしまいます。 山腹にも天然の石を加工したような石積みが見られ、斜面を横切るような形で連なっていました。 こちらは築城時からあるものだと思いますが、防御として何の意味があるのかよくわかりませんでした。 それでも山頂付近まで行くと、本丸周囲は土塁で囲まれ、石垣や堀切も残っていました。 堀切跡 見事に残っています。 本丸の石垣 本丸土塁 こちらもはっきりと残っていました。 本丸から南側を眺めると、はるか周防灘を遠くに望む景色が広がっていました。 今思えば懐かしい光景です。 荒滝山城は大内氏の重臣で長門国守護代であった内藤隆春の居城であったとされています。 山頂部分は戦闘時の詰城で、普段は山麓に居館があったようです。 発掘調査では中国や朝鮮の陶磁器など、16世紀中頃から後半にかけての土器が出土したとのことで、まさに防長の戦国期にあった山城ということになります。 内藤氏は大内氏と関係が深いながらも、荒滝山城で実戦が行われた跡がないことから、毛利氏に降ったのかも知れません。 それだけに城の遺構もよく残っているとしたら、なんとも皮肉な話でもあります。

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