パクス・ジャポニカ Vol.2

2017/06/08(木)11:47

大阪城(摂津国)その2~本丸

城跡と史跡(大阪・兵庫編)(19)

同心円状に配された輪郭式縄張りの中心、大阪城本丸の大手口は時計でいうと6時方向の南側にあります。 桜門(国指定重要文化財) 桜門にも枡形が残っており、正面の鏡石は「蛸石」の名前が付けられていました。 蛸石 表面積約60平米、重さ約108トンと、大阪城で最大の石です。 「水の都」に相応しく、幾重にも水堀で囲まれた大阪城にあって、本丸内堀の南側だけは空堀になっていました。 江戸幕府による改築では、築城の名手藤堂高虎が普請奉行(土木の総責任者)に選ばれました。 この時、徳川秀忠は石垣の高さと堀の深さを、豊臣時代の2倍とするよう命じたそうです。 桜門をこえて本丸に入ると、大阪城の代名詞ともいうべき天守が目に入ってきます。 現在の大坂城天守は、戦前の1931年(昭和6年)に建てられたもので、復興天守の第一号だとされています。 (豊臣時代・徳川時代共に天守が実在したため、模擬天守ではなく復興天守) それにしても「昭和天守」の塗籠の白い外観は、徳川時代を象徴しているようで、個人的には好きではありません。 どうせ復興天守ならば、「太閤さん」の時代の下見板張り、武骨な黒い天守でもよかったでしょうか。 「大坂夏の陣図」の天守 熊本城や岡山城のように実用的で、西日本らしくて宜しいかと思います。 明治から戦前まで、大阪城跡は陸軍用地として使われており、本丸には旧陸軍第四師団の司令部が置かれていました。 戦後は大阪市立博物館となっていましたが、現在は閉館となっています。 それにしても昭和初期の建物には「機能美」、すなわち実用性を兼ね備えた芸術にあふれていると思います。 (台北に赴任していた時、日本統治時代の建物を数々見て、つくづく感じたことでもあります) その陸軍施設があったことにより、大阪城も空襲の対象となっていました。 天守台の石垣には、当時の焼け跡が今も残っています。 黒く焦げた跡が激しい空爆を物語っていますが、よく残ったものです。 爆心地近くで耐え残った広島城の石垣もそうですが、400年も後の兵器に負けなかった石垣を見ると、当時の土木技術の高さには感服します。 天守を抜けた北側にも虎口があり、淀川や支流の寝屋川が流れる「水の都」が見通せます。 「ミナミ」より「キタ」のこの光景が大阪らしくて好きで、やはり水運と商業の都だと思います。 戦国時代の終わりを定義するならば、豊臣秀吉が1590年に小田原の北条氏を滅ぼし、関東の戦乱を治めたことにあると思います。 個人的にはこの時をもって「天下統一」と考えますが、その「天下泰平」の中心地が大坂だったでしょうか。 政治と商業と文化の中心地でありながら、今からちょうど400年前の大坂夏の陣で。豊臣秀頼と淀殿が自害した場所があります。 山里曲輪にある「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」の碑 天下泰平の終わりでもあり、その後260年の天下泰平の始まりでもあります。 現代でいうならば、政権交代くらいの感じだったのでしょうか。 さらに山里曲輪の搦め手方向に行くと、二の丸へ続く橋に「極楽橋」の名前が付けられていました。 「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」 豊臣秀吉辞世の句

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