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テーマ:旧街道めぐり(188)
カテゴリ:旧街道めぐり
東北地方で仙台に次ぐ2番目の規模を有する郡山には、かつて奥州街道の宿場町が置かれていました。
郡山を訪れる用事があったため、ついでに奥州街道の宿場町を探索してみることにしました。 郡山駅の西側を現在の奥州街道(国道4号線)が南北に通っていますが、並走する県道355号線にも奥州街道の名前があり、こちらが旧街道を踏襲しているようでした。 「なかまち夢通り」の旧奥州街道 「中町」の地名からして、この辺りに宿場町の中心部があったと思われますが、今となっては旧街道の面影はありませんでした。 商店街の歩道には、かつての本陣の絵図が埋め込まれており、ここが宿場町の中心であったことがわかります。 なかまち夢通りに並走する道には「芭蕉通り」の名前があり、松尾芭蕉が通ったことに由来しています。 この細い路地がリアルな奥州街道だったようです。 芭蕉通り脇には鳥居があって、安積国造神社の表参道が延びていました。 国道4号線も越えた先に境内があります。 安積国造神社の拝殿は1810年に再建されたもので、郡山市街地では江戸時代から残る唯一の木造建築物だそうです。 安積国造神社の起源は古く、西暦135年に初代安積国造に任命された比止禰命(ひとねのみこと)の創建とされています。 境内にある「安積発祥」の碑 安積国造神社から再び奥州街道に戻ってみると、道路元標が残っていました。 元々は安積国造神社の表参道に建っていたそうです。 道路元標の隣には、江戸時代の郡山宿の飲料水であった「山水道」が復元されていました。 当初は水田灌漑用の「皿沼」の水を引用していましたが、明和年間(1760年頃)には個人や共同で井戸を掘り、水道水として利用したのが「山水道」です。 山水道は地下を木管や竹管でつなぎ、長いものは数千メートルに及んだそうです。 それでもやはり郡山の水道と言えば、日本三大疏水の1つとも言われる安積疏水でしょうか。 猪苗代湖から山脈を越えて安積に水を引くという、まさに明治新政府最初の国家事業を推し進めたのが、大久保利通でした。 郡山の人は語尾に「~ばい」と付けたり、アクセントが九州南部に似ているように思ったのですが、実は気のせいではなくて、安積疏水の灌漑事業で久留米藩などから士族が移り住んで来たためとのことです。 旧奥州街道も飲食店の並ぶ「大町」に入ってくると、九州料理やとんこつラーメンのお店が目立つようになって来ました。 江戸時代の郡山宿には代官所が置かれていたようで、代官所のあった駅前の通りには「陣屋通り」の名前が付けられています。 陣屋通り 大正の終わりから昭和初期にかけての建物が残る郡山にあって、この界隈にも昭和のレトロな雰囲気がありました。 何となく懐かしさを覚えたのですが、ふと台北に赴任していた頃を思い出しました。 この辺りは昭和のど真ん中の日本でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/03/29 04:41:17 PM
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