鳥取城(因幡国)~その3
「山下ノ丸」背後の久松山(きゅうしょうざん)山頂部には「山上ノ丸」があり、二の丸から「中坂」の登城道が続いています。中坂の登城道入口この日の鳥取市街地は一面雪に覆われていると思っており、久松山については雪中登山も覚悟していました。市街地はもちろん、登山道にも雪はなく、まずは一安心です。それでも登城道を登り始めてすぐ、物騒な看板が目に入りました。昨年6月に会津若松でクマに遭遇して以来、ザックにはクマ除けの鈴を携行しているのですが、さすがにこの季節は鈴も必要なさそうです。鳥取城を描いた絵図のうち「天球丸御絵図」には、石垣と木々で囲まれた八幡宮が描かれています。現在も登城道脇に八幡宮の跡が残っていました。北東の鬼門に配されていることからも、城の鎮守だったかも知れません。八幡宮から振り返ると、天球丸の曲輪がよく見渡せました。標高263mの久松山山頂部までは急登が続き、ようやく視界が開けると、曲輪の跡と石垣が現れました。「山上ノ丸」二の丸石垣山上ノ丸は山下ノ丸の詰丸の役目だったと思いますが、三の丸から本丸まで備えた連郭式の縄張となっており、ここだけでも独立した城郭のような感じでした。現地にある縄張図二の丸虎口跡山上ノ丸の本丸は予想外に広く、近世城郭の本丸ほどの広さがありました。本丸跡本丸には、1602年の池田長吉による城郭改修時に掘られたとされる井戸が残っていました。またかつて本丸には天守が建っており、その天守台も残っています。天守台天守穴蔵跡天守は1692年の落雷で焼失し、その後は再建されなかったそうです。天守台から本丸直下を見下ろすと、帯曲輪が配されており、中世の戦国城郭のような感じがしました。また、天守台から北側の海岸線に目を凝らせば、靄の中に鳥取砂丘がありました。天気が良ければ、隠岐の島を望むこともできるようです。中世城郭と近世城郭を併せ持つ鳥取城ですが、その歴史も中世と近世に分かれています。戦国時代にはすでに久松山に城郭はあったようですが、城主が年表に登場してくるのは、1563年の武田高信で、武田高信は山名氏と対立していました。1573年に山名豊国が武田高信を滅ぼすと、山名豊国は鳥取城に本拠を移しましたが、1580年、織田信長配下の豊臣秀吉による第一次鳥取進攻で、山名豊国は降伏しました。1581年には毛利方となって吉川経家が入城しますが、豊臣秀吉による第二次鳥取進攻により、鳥取城は落城し、吉川経家は自刃しました。三の丸に建つ吉川経家像この時、豊臣秀吉がとった戦法は兵糧攻めで、その戦いは「三木(城)の干し殺し」と並んで、「鳥取城の渇え殺し」と呼ばれるほど壮絶な籠城戦でした。鳥取城が近世城郭として整備されるのは1601年のことで、関ケ原の戦い後に入城した池田長吉によるものでした。1617年には池田光政が姫路城より入城し、現在に残る城郭の大改修と城下町の整備を行っています。日本城郭協会「日本100名城」