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† Ano i ne. Proboha! †

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2006年01月25日
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ショパンコンクールにあこがれるようになったのは、いつからであっただろうか?

何と、白状すると5歳にして、すでにこのコンクールにあこがれていた。

1965年冬に開催されたショパンコンクールは、アルゲリッチが優勝し、中村紘子さんが4位に入賞した。中村さんは、このコンクールの時点が、演奏家としての頂点であった、との話も聞かれるものの、彼女の入賞は、5歳の少年の心に残る出来事になった。

その中村さんが、たけみの当時住んでいる町に演奏にやってきた。幼稚園児のたけみは、彼女の演奏にあこがれ、そして彼女の仕草にあこがれた。

演奏中にキャミの肩紐が切れて、あわてて、演奏を中断して袖に引っ込んだことまで覚えている(おいおい、ただ単に、お前はスケベだったのだろう、って声は無視します)。

1970年のオールソンには2メートルに近い、恐るべき背の高さに驚き、一方で内田光子さんが、今なお破られない日本人最高位2位に入賞された。

1975年は、ポーランドのクリスティアン・ツィメルマンが優勝したが、彼の演奏の神経質かつ線の細さになじめなかったことを覚えている。その反面2位になったディーナ・ヨッフェのおおらかな演奏に感動したものである。

1980年は、ベトナム難民出身の、ダン・タイ・ソンが優勝をさらった。日本の海老さんが5位に入賞した。海老さんは、アルゲリッチの弟子であるが、国内での評価はそんなには高くなかったと記憶している。

1985年はブーニン・シンドロームが巻き起こった。しかし、たけみはNHK特集を見て、感動したのは、むしろ3位のクシストフ・ヤヴウォンスキーや、4位の小山さん、5位のルイサダさんあたりであった。

1990年と1995年は、ともに優勝者が出なかった。1995年2位のスルタノフの非業の死の報に関しては、冥福を祈るしかない。

2000年はユン・ディ・リの独壇場であった。彼の新人類的パフォーマンスは、新しい時代を予感させるものがある。

そして、2005年、ブレハッチ君は、たけみには今までで最も感動した、コンクール・ウィナーである。彼のちょっと「おちゃめでキュート」な演奏に嵌ったのである。まるで彼に恋をしたかのような、初々しい感動を、彼の演奏からは感じる日々である。

ここで、1980年のポゴレリチ事件に関して書いておきたい。少なくとも彼は、コンクールに勝てる出場者ではなかったと断言する。私は、学研から出た、ショパンコンクールの歴史の中の1枚のDVD(ポゴレリチ事件で丸ごと1枚)を見て、そのように確信した。このDVDを見る限りでは、彼が自らトラブルメーカーとなって自爆したとしか思えない。少なくとも、彼を見て、ある種の不快感を、そのときのコンクール出場者は感じたに違いないと信じる。ただし、これは演奏自体の内容とかレベルの問題ではない。コンクール参加者に求められる、一般常識の問題であろう。従って、彼がコンクールに敗れたことは当然である。しかし、実力は認められたのであるから、彼に取ってもこれで差し障りは無かったのではないだろうか?

最後に、日本で、ショパンコンクールが終了後、間もない時期に、コンクールライヴ録音が発売されるきっかけになったのは、1965年のコンクールである。中村さんのLPに続いて、アルゲリッチの来日時に、彼女のライヴも発売された。



ところで、たけみの手元には、1枚のLPがある。これは、ワルシャワで、コンクール期間中に即席で作られるLPである。演奏の3日後には入手できたらしい。CDとは違って手間暇かかることを考えると脅威である。なぜか、このコンクールライヴのLPで、ワルシャワの会場で売られたラベルが白い、アルゲリッチの協奏曲のLPが、たけみの手元にあるのだ。

このLPはたけみの宝物である。





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最終更新日  2006年01月26日 00時12分06秒
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