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タコ社長の海外生活30余年ゾクゾク日記

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2019年06月09日
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フィリピンのセブで秋田というレストランをやっている。

昔、腹一杯食べられるのが至福に思える時があった。その後日本では大食いはTVのショー化した。今、フィリピンは食い放題の店が雨後の筍状態。腹一杯食べられるのが至福の時代真っ盛り。そんな時に元経団連の会長土光さんのメザシのご飯とかの話をしても通じない。後でわかったが、あの清貧のメザシといわれたメザシは産地から空輸されたような高級メザシだったとか。いずれにしてもメザシはメザシで食べ放題では飽きも来る。

味噌ラーメンが更に進化して人気のレストラン秋田でも、「お前のところは食べ放題か?」というフィリピン人の問い合わせが後を絶たない。そのつど、健康に悪いのでやらないといっても馬の耳に念仏化。

飲食という魔界に入り込んで3年が過ぎた。もういいかい、とかいいたい世界だ。流行っていない店のことは頭に入らなく、行列ができるような店の方が目についてしまう楽しい刺激の世界。

自慢じゃないが、一度に2人以上の女性と付き合ったことはない。なりかけたことはあったが警察官の父の顔が浮かんでやめた。ただ、あそこにいい店の候補がある、あそこにもある、なんてことを知るとすぐに手をつけたくなる悪い癖。今の店に行列ができてる訳でもないのに二店舗目、移転などに目が眩む。こちらの女性の付き合いと同じように地味にしないといけないのに。

今回、健康のこととか色々あって、今の店で当面精進することにした。「あれも、これも」じゃなく「あれか、これか」を極めることに。

93歳のお母さん、あの世の元警察官のお父さん、もう場所が悪いから流行らないとか2度と言いません。大金持ちが来て一番安い物食べて支払い時にシニアカード出してに割引を睨みつけるように言い放っても文句言いません。(だから金持ちになったのでしょうから)

どうでもいいことだが、こちらの大金持ちは本当に苦虫を食いつぶしたような顔の人が多い。自分より金持ちのことが気になってハッピーになれないのか。






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Last updated  2019年06月09日 12時01分28秒
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2019年06月02日
オランダ系の連れ合いはオーストラリアのメルボルンの生まれだ。1956に両親がオランダから移民してきたあとに、メルボルンの郊外で生を受けた。

熊本で一年、岐阜で一年、日本で合計二年英語を教えた経験がある。肥後弁なんかもたまに出る。英語を教えることに関しては辛抱強い。日本から帰って、当時(1990年)私が開いていた日本語教室に迷い込んで来てくれた。そう、私は元日本語教師。この開いていた日本語教室、校長1人、教師1人、用務員1人、みんな私1人がやっていた。連れ合いはきれいな日本語を話すおとなしいイメージの人だった。外人が日本語を話すとほとんどの人がおとなしく見えるのは不思議な気がする。これに騙される人が後を絶たない。

ヨーロッパの中でもオランダ人は背が高いといわれている。連れ合いも結構上背がある。ミスユニバースのTV番組を見ながら、昔は私もあんなだったわ、などといいながら自分で笑っていた。ちなみに、若い人の平均身長が180センチに近いという。元相撲取りの私も目立たなくなる。

「ドイツ人は二十歳くらいまでは妖精のように可愛いが、それを過ぎると遠慮なく太り始める。どうもジャガイモのの食い過ぎのようだ。」中学校のときの保健体育の時間に先生が言っていたことが、その後のジャーマン系の民族を見る目の原点になっていてありがたい。

そういう訳で、とうに二十歳をすぎている連れ合いと一緒にウォーキングしたりしている。私は色々あって今年12キロも痩せたが、連れ合いは冗談にその分を私がもらったなどと言っている。

そんな連れ合いにいつも会話が少ないといつも言われ続けて28年になる。小さいときからこちらの人のように、5分で話せることを30分にして話すような訓練は受けていないので、「うん」とか「はい」とかで会話が終わることが多く連れ合いはいつも不満げだが、もう70も射程距離になっていきなりおしゃべりになる人もそういないと思うので我慢してもらうしかない。

連れ合いは敵にするとこれ以上手強い相手はないほどだが、いつも笑顔の絶えない人で味方で本当によかったなと思う。こんなに笑顔の多いオーストラリア人もそれほどいないと思う。そんな連れ合いの理解を得て、今はフィリピンのセブで秋田というラーメン屋をやっている。数えたら、メルボルンにいる日よりセブの方が長くなっている。単身赴任などという言葉が辞書にないオーストラリア、連れ合いの親からは「お前たちは一体どうなってるんだ?」などと言われまくっているが。

子供の時、あの東京は練馬のアメリカ軍のグラントハイツでの初恋が、こうして南半球であだ花として変種の実を結んでいるのかと思うと、マッカーサーさんも一つはいいことをしてくれたと思えてくる。






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Last updated  2019年06月02日 05時49分21秒
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2019年05月25日
フィリピン、仕事の経緯で関わってから7年になる。石の上にも3年が2回転とちょっと。仕事でいちいちビザ申請も何だからということでリタイヤメントビザも取得、一生いることもできる。ただ、ペンションとか医療とかでは何の恩恵もなく、ただ居られるというだけのビザだが仕事はできる。

フィリピンとの出会いは日本ではほとんどなかった。ビンボーダナオと淡路恵子が結婚とかで聞いた国。個人的な関わりは、サラリーマン時代贔屓にしていた六本木マキシムの歌手ミルナに父親の病気仕送りと嘘をつかれ20万円詐欺にあった程度。あまりいい印象はなかった。

34年住むオーストラリアのメルボルンでは20年ちょっと留学生のお世話をする留学センターを経営、その延長線上でフィリピンのセブに英語学校を設立、そしてその経営は後陣に譲り3年前から日本食レストランを経営。フィリピンの事業は還暦を過ぎてから。日本のとんでも政党立候補者の中には60歳以上からは選挙権剥奪すべしとか言っている輩がいるそうだがその年代者。

練馬の豊島園の近くにあった(今もあるが)向南幼稚園雪組で勉学している頃は「末は博士か大臣か」などという言葉が通用していて、頭が天才か秀才だと博士か大臣を目指した時代。今は、博士は別としてバカじゃないと大臣ができない時代になっている。嘆いても仕方なく、そういう時代になっているということ。やったことは別として、吉田、岸、池田、佐藤、田中、福田、大平、宮沢、中曽根など皆天下の秀才、または庶民宰相だった。

因みにこの幼稚園では近所に住んで居た星出真理子ちゃんから、私じゃないと結婚しないと言われていた。芸名にしたいくらいの真理子ちゃん、今は行方不明。選挙権剥奪の話からちょっと話がずれてしまった。

ということで、今回色々あって2ヶ月以上いたメルボルン、色々なものを引きずりながらも明日セブ入りする。レストランの方はいてもいなくても売り上げはあまり変わっていない。もっとも初めから大した売り上げではないが。

これから古希までの石の上の3年、結果にコミットしてやっていかんと。と言っていたらこの「結果にコミット」と言って急拡大していた会社、100億以上の赤字を出したとか。てなことで、あまり先のこと、あまり大きなことは言わないで地味にこっそりとやっていくのがいいのかも。

セブの皆様、お待ちどうさまでした。あまり待ってなかったかもだが。メルボルンの皆様、行って参ります。日本の皆様、次回は10月を予定ということで。









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Last updated  2019年05月25日 10時08分13秒
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2019年05月20日
オーストラリアに移住して、フィリピンのセブで英語学校や飲食に携わる前は日本でサラリーマンをしていた。こんなサラリーマンの営業時代、東京で接待に使ったのは赤坂にあった「ニュー・ラテン・クォーター」で、京都では三条大橋にあった「京都ベラミ」だった。そして、自分達だけの社内接待に頻繁に行ったのが、六本木にあって男女のトイレが一緒だった「クラブマキシム」だった。みどりさん、みはるさん、えみさん、フィリピン人歌手ミルナ、アメリカからのダンサー、タミー、、。ちょっと話が横道に。

1978年の8月から1984年の9月まで、あるメーカーの海外営業部に籍を置いていた。その前の別の部署での2年半を加えると9年弱のサラリーマン生活だった。

当時、赤坂には、「コパカバーナ」「花馬車」「ゴールデン月世界」「ミカド」そして、「ニュー・ラテン・クォーター」という大型ナイトクラブ、またはグランドキャバレーがあって、接待の場所には事欠かなかった。大型ナイトクラブ、キャバレーの全盛期が続いていた。

その中でも、「ニュー・ラテン・クォーター」は、結構頻繁にお邪魔していた。英語の分るホステルも多く、外国人の接待にはもってこいだった。そしてあの、誰もが一度は乗ってみたかった「はとバス」夜の東京観光の中に「ミカド」もあった。中国人のクライアントを「ミカド」で接待している時に、二階席にどやどやと「はとバス」の一行が入ってきてビックリしたことがあった。

「ニュー・ラテン・クォーター」は何しろ店に入るときに下りる真っ赤な絨毯の階段が豪華にできていて、上品さは天下一品だった。トイレに専用のお世話の方がいて、用を足すごとに100円のチップを払っていて、オシッコなどと言ってはもったいない雰囲気さえあった。座るだけで当時のお金で2万円はしていた。じゃ、立っていようかなんて訳にもいかないが。

「タコさん、いいんだよ、すべて諸岡さんに任せておけば。」ここの主のようなマネージャーがいて、すべては彼に話せばことがスムースに進んだ。どんな女性をテーブルに呼ぶとかは、担当の女性がいてその女性が仕切った。

ここは、昭和38年に力道山が刺された所だった。力道山は、その一週間後になくなっている。あの時、39歳だったと知って若かったんだなと驚く。当時は雲の上の人だった。

幼稚園の頃、歩いて10分くらいの所にあったタバコ屋さんで、生まれて初めて多くの人と一緒にプロレスを見た時、怖くて怖くて震えて歯が鳴った。白黒テレビで小さな画面だったが、黒いタイツ姿の力道山が大きく見えた。「おい、この子震えてるよ。」っとどこかのオジサンに笑われて警察官の子供らしくない振る舞いを恥じた。

「ニュー・ラテン・クォーター」のトイレに入るたびに、力道山のことが過ぎった。子供の時のヒーローだったからだろう。小用の振るえと、子供の時の震えが入り混じる。力道山が使った便器かと思うと拝みたい気にもなったものだ。

ところが、このナイトクラブが大変な災難に巻き込まれることになってしまった。

昭和57年2月8日、午前3時30分頃、会社乗っ取りの異名で有名な、横井英樹社長経営のホテル・ニュージャパン(東京都千代田区永田町)の9階から出火。異常乾燥注意報発令中の都心を真っ赤に染めた。この日の宿泊客は442人。うち9階と10階に宿泊していたのは103人で、この多くは台湾や韓国からの「札幌雪祭りツアー(61人)」の宿泊者だった。灼熱と煙に巻き込まれ部屋や廊下で死亡した者や猛煙に耐え切れなかった宿泊客が9階、10階から飛び降りるなど33人が死亡、24人が重軽傷を負った。

この火災に会社の同僚が2人巻き込まれ命を落としている。蝶ネクタイの横井社長がTVに出るたびに虫唾が走った。このナイトクラブは、ホテルの地下に広がっていたのだ。

ロサンゼルスから来いて「ニュー・ラテン・クォーター」で踊っていたストリッパージョイを浅草に連れて行ったときは、180センチはあろうかというジョイの美貌と体型に俄然視線が集中してうるさいくらいだった。そして、どんな男が連れているのかと私を見る視線が「何だこの程度の男か!」的なものが圧倒的で、マゾ度100%の一日となった。私はどうも昔からストリッパーと縁があるようだ。他の件はまた別な機会に。

「京都ベラミ」。その一年前に、広島で戦後生まれた有名人二人のうちの一人、かの山口組三代目田岡組長が狙撃されたクラブだった。因みに、もう一人の有名人とはあのダイエーの創始者中内功氏だ。中内さんも、どちらかというとヤクザっぽい方だと思われるが。

私は、田岡組長がピストルで撃たれたその一年後に「京都ベラミ」を訪れて、面白い思いをさせていただいた。あるホステスからとんでもないことを頼まれたのだが。









Last updated  2019年05月20日 12時07分13秒
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2019年05月19日
高校一年の時だった。どうしても英語が上手くなりたかった。リンガフォンの英語学習キットがどうしても欲しい。50課を勉強すれば英語が話せるようになると自分に信じ込ませて父親に言った。「最後までしっかり勉強するから、リンガフォンのレコードを買ってほしいんだけど。」

その前の年に、私たち一家は14年住んだ練馬の警察官住宅から、東村山市に移り住んだ。警察官の安月給で大借金をして家を建てた両親には、本当にお金の余裕がないことはわかっていた。私と違って、竹を鋼鉄で割ったような性格の父親は、賭け事など道楽にまったく関係のない生活だったから家も建てることができたのだろう。因みに最近若い時にこの父が浮気をしたことがあると年老いた母から聞いて仰天、7年前に88歳で他界した父の見方が変わった。

途中でやめるようなことにはならない、という条件で買ってもらうことになった。セットで1万7千円だった。昭和43年の1万7千円だ。

熱し易く冷め易い、惚れっぽくて捨てられ易い性格は一筋縄では御せない。結局、このときもその性格が影響して、半分もこなさないうちにそのレコードは押入れの奥にしまわれるハメになった。

こんなことだから英語では、いまだに苦労が続いている。しかし、あの時アメリカ英語を50課まで徹底して終えていたらオーストラリアにはいなかったかもしれないし、セブで英語学校を始めたり客が9割フィリピン人のラーメン屋も開くことはなかっただろう。とするとやっぱり中途半端でよかったなんて訳のわからない屁理屈いっている。最近では英語はおろか日本語さえもおぼつかないことさえでてきて、さすが聞き上手のタコ社長とか言われてへらへらしている。

ああ、それにしても、最初にあのレコードを聴いたときの本場の英語に震えるような違和感を感じてしまったのはどうしてだろうか。私は、教室の日本語英語が好きだったのかもしれない。第一、発音が分り易かった。









Last updated  2019年05月19日 14時47分44秒
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2019年05月18日
シドニーの新宿歌舞伎町、キングスクロスが私のオーストラリアでの生活の出発点だった。日本から、わけも分からず予約をいれた簡易ホテルに1ヶ月ほど投宿した。1985年の6月のことだった。

ヨー ロッパのカフェ文化が少しずつ浸透してきていた。宿から歩いて1分くらいのところにBourbon & Beefsteak Barというステーキレストランとバーが一緒になったよう店があった。24時間営業だ。バーの奥にはピアノの弾き語りなんかがあって、割と落ち着いたムー ドを出していた。週末にはすごい賑わいだったがウィークデーはゆったりと飲めた。好奇心も手伝って、毎晩一杯ひっかけに行っていた。六本木交差点の近くに あったバーニーインに似た雰囲気があった。因みに、この六本木の店には時々行っていたが、白人男性と友達になりたい日本人女性からシカトされることが多々あってマゾっけが磨かれた。日本人の男はお呼びじゃなかった。

黒人のピアニストがビリー・ジョーの「ピアノマン」を奏でている。
「どっからきたの?」金髪を素直に伸ばした、年のころでいうと30代後半の地味な女性が話しかけてきた。こういうことは、日本ではまったくなかったことだった。

「東京から。」私は、日本とは言わずいつも「東京」ということにしていた。茨城とかだったらそうもいかないが、「東京」を知らない外人はいないだろうと思っていた。



「私はカルフォルニアから来ているの。ニッキー、よろしくね。」
そうか、彼女も外国人だったのだ。境遇は同じだ。人恋しかったのだろう。

「この手羽先、食べられないわね。」
ニッキーと名乗った彼女はエクボを作って、無料で出される手羽先に苦笑いした。確かに身がない手羽先だった。

「僕は一ヶ月、このキングスクロスに住むことにしてるんだ。」
中学3年程度の簡単な英会話で十分通じる。ハイボールをチビチビとなめながら、音楽に聴き入った。

ほんのちょっと前までは、東京は東村山にいて、押入れから冬物を出して渡豪の準備をしていた。今は、観光ビザで将来のあてもなく、シドニーのバーでアメリカ人の女性と話している。不思議な気持ちが渇いたピアノの音にくるまれて生温かく漂う。この開放感がたまらなかった。先の見えない将来への不安がなかったといえば嘘になる。それと裏腹に、これからの人生なんでも可能なんだ、みたいな変な自信もあった。不安と自信が、ハイボールの中でぐるぐる回って酔いが早い。33歳になっていた。

ニッキーとは、このバーでそれから2,3回出会った。いつも、同じ席に座って、時々ピアニストの黒人にニコッとしたりする他は、ほとんど動かない。金髪の派手な輝きだけが浮いている。

一度だけ、ニッキーとハシゴをしたことがあった。モスマンという所にあった「ピクルドポッサム」という、やはり弾き語りのあるバーに連れて行ってくれた。お互い金がないのでバスで行った。ピクルスは漬物のことだが、この場合は酔い潰れた酔っぱらい、という意味だとニッキーは教えて くれた。

彼女もオーストラリアに移住を求めてやってきているらしい。でも、なんだか影がありとっ突き難いところがあって、会話がうまく運ばない。永住権取得もうまくいっていなかったようだ。せっかく行った二軒目の店で、周りの喧騒とは裏腹に私は息苦しくなって先に帰ることにした。

それから、Bourbon & Beefsteak Barでは彼女を見かけなくなった。そして、私は6月の末にはメルボルンに移動し一カ月の旅に出た。

永住権を求めて、根無し草のように漂っている人が多くいることを知った。私もそのうちの一人に仲間入りした。それから暫くして、私は憧れたいたシドニーを後にしてメルボルンに向かうことにした。

メルボルンに向かう夜行バスの窓ガラスに黒く映る自分自身を見つめながら、自分は永住権を取るまでは絶対に日本に帰れないな、と当てもないのにひとりごちしていた。







Last updated  2019年05月18日 15時48分53秒
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2019年05月17日
なぜか34年住んでいるオーストラリアではタコ社長と呼ばれている。

「タコさん、西オーストラリアのシャーク・ベイの海の中に私たちの先祖がいるんですよ。」タコの先祖が海の中に言われたのだからそれほど驚くことでもないが、これが本当のウミの親とか冗談の一つも飛ばしたくなった。友人にそう言われたシャークベイにはなんでも35億年前の先祖が生存しているのだそうだ。ちょっと気の遠くなるようなご先祖さんだ。
 
このシャーク・ベイは、1991年に世界遺産に登録されていて、その理由がその先祖にあるという。その先祖とは、ちょっと舌を噛みそうなストロマトライト(Stromatolite)といわれる生きた化石なのだ。実は何とこれが地球上で初めて酸素を造ったといわれている。先カンブリア時代に出現生息していた藍藻類の石のようなもので、この藻は大昔から地球に酸素を供給している。してみると、これがその後の動植物の恩人(恩石)ということになる。ちょっと、想像を絶するほど昔の話で、「亀は千年、鶴は万年」などという言葉すら色あせてしまいそうな勢いがある。

オーストラリア大陸は地質学的にも世界で最も古い大陸にはいるらしく、動植物で他に類をみないものが沢山あって、このご先祖さんも含めてそんなものを見て回るツアーもなかなか面白そうだ。古い地質ということで、この国には地震がない。ないと言い切ることには語弊がある。メルボルンに住んで30年以上になるが、「あれ、これもしかしたら地震かな。」と思える体験が1度あった。

今更この国の珍しい動物についていうまでもないが、カンガルー、コアラ、ウォンバット、カモノハシなども、他の国に類をみない例のそのごく一部。ちなみに、カンガルーなど有袋類のオスは、直接見たわけではないが二股のペニスをもっているという。どうしてなのか、効用はあるのかなど考えたら眠れなくなるのが、今私には限りなく関係が薄い話にはなっているが。

そういった珍しいものの極め付きがこの特別な藻というわけだ。これもいまでは地球上で2箇所にしか生存していないそうだ。1年間に0.3mmという超スローライフで今も成長している。これを聞いただけでも、長生きせんとと。

ここも、リタイヤしたらキャラバンで回るコースに入れておくことにする。35億年前からというので、あまり焦って行かなくてもずっといてくれると思う。もっともセブでラーメン屋初めてリタイヤが見えてこないが。






Last updated  2019年05月17日 20時44分27秒
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もう20年も前から徒然なるままに勝手にブログ日記を書いてきているが、途中で止めて今度で4度目の挑戦となる。過去の日記もまとめながら今の生活、思うことなどを綴っていきたい。一度本も出版したが売れずに東村山の実家には山となって納屋に積まれている。

日記、今度は続けていきたい。70歳も射程距離に入ってきた今、新たにフィリピンのセブで飲食店の拡大など検討しながらリタイヤのない人生を。楽しくやっていけるうちはどこまでも。






Last updated  2019年05月17日 20時23分31秒
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