平城京が長安の都を模倣したのは有名な話です。皇帝、日本では天皇が北に位置し南を向きます。理由は簡単、南を向いた皇帝に日が当たり神々しく見えるからです。漢字でも北にある肉(月)を「背」と書きます。皇帝、天皇の背中はいつも北を向いているからです。天皇から見て左が左京、右が右京であり、現代の地図とは左右が逆になります。天皇の目の前には朱雀が滑走するような朱雀大路が広がります。
平城京へは710年に遷都ですが、その頃には未完成の都市だったようです。また平城京から一度遷都してから戻ってきたりしています。そして784年には完全に廃棄されます。表向きの理由は先日説明したとおり治水であり、寺院の荘園支配が影響と学びました。しかし日本の歴史にはタブーがありますし、正史の歴史書に書いていない事を想像してはいけません。歴史書は勝者が編集したものであり正しいわけが無いからです。
正直なところ、最近はタブーとは言えません。天智天皇と天武天皇のつながりは明らかにおかしくクーデターであろうと言う事は誰でも推測できる事です。いろんな本でも書いてありますし、最近はテレビ番組でほのめかしています。その天武天皇の血筋から天智系が取り戻したのは光仁天皇であり、その子桓武天皇が天武の香りが強い平城京を捨てます。
桓武天皇の次は「平城」天皇であり、平城京への再遷都を画策します。この辺りの背景は私には想像もできませんが何か大きな謎が潜んでいるような気がするのですよ、コナン君。