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坂ノ下田村麻呂のブログ

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2006.12.28
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カテゴリ:SLに関すること
中山宿スウィチバック磐越西線の名所「中山宿駅」

2006年のSL撮影紀行は、2月10~11日に磐越西線電化区間のD51「会津路号」収録からでした。今年の磐越西線D51冬季運行は試運転日の10日は好天に恵まれ素晴らしき雪景色の中の運行でしたが、11日からの営業運転では降雪状態の中の走行となりました。
2月11日は早朝5時に中山宿大カーブの撮影場所に現地入りして撮影場所確保の後、列車到着までの約5時間を車中待機して撮影に望みました。

2006年4月1日のC57「ばんえつ物語号」運行開始日には、前夜からの春の降雪の御陰で、
雪景色の中の走行と言う演出の中でのスタートでした。
10月22日にC57「ばんえつ物語号」は機関車全般検査の為にリタイヤして、残る11月26日までの「ばんえつ物語号」運行を、DD51・DD53・D51と言う名優たちをピンチランナーとして登用して運行されました。皮肉な事に主役のC57以上の鉄道ファンが、ピンチランナー
登場の際に全国から参集して、大変な騒ぎとなりました。

しかし鉄道ファンのバイタリティは大変なものだと思います。私もSL全廃期間は撮影を中断しましたが、1989年にD51-498が奇跡的に復活して磐越西線に遠征して来た時に、その熱が再燃して、2003年から2006年までは毎月1~2回の撮影に出かけるようになりました。

私が始めて鉄人の魅力に気が付いたのは、昭和 46年 8月に旧友と北海道旅行に行き、大沼公園駅から倶知安まで、急行ニセコ3号 に乗車した時でした。それまでは、鉄人(特にD51)が多く所属していた東京都江東区の小名木川機関区や汽車会社がある周辺に住んでいたので、日頃から見慣れていたせいで、関心が無かったのです。
ところが、大沼公園駅で列車到着待ちの時に駅周辺の多数のカメラマンの存在に驚き、これから何が起きるのかと不審に思ったその時に、小沼沿いに遥かかなたから黒煙を吐きながら接近中の列車を発見し、その列車こそが急行ニセコ3号であると分かった時でした。私も、慌ててカメラを取り出し撮影したのはもちろんのことで、車中で改めて我が居住地周辺の状況を考えて見たところ、いつの間にか鉄人D51がDD51などのDLに世代交代されていることに気が付き、その後東京に帰京後、国鉄の鉄人運行路線を調べて初めて、本州・四国・九州の一部路線と北海道だけであることが分かり、鉄人引退の前に出きるだけ写真記録を残したいと言う衝動に駆られた時でした。
その後は学生の特権を大いに利用して、アルバイトに精を出し旅費を捻出に励み、北海道から鉄人の姿が無くなる直前までの、春・夏・冬の時期に毎回2週間の撮影紀行を開始したのです。
北海道周遊券の学割を大いに利用し、北海道の各路線の鉄人達の撮影旅行に没頭してました。
そのころから単なる写真では満足行かず、8ミリカメラで動画集録に没頭してました。
今思い起こすに、宗谷本線の(雪の塩狩峠)・釧網線の(川湯周辺・小清水原生花園周辺)・名寄本線の(冬の天北峠)・湧網線(網走湖・サロマ湖周辺)に、特に様々な思い出が残っています。

当時の8ミリカメラ用フィルムは一巻が4分間撮影可能のコダック社製フィルムで、撮りためたものを編集し繋ぎ合わせる作業も大変なことで、それでも北海道の鉄人の約2時間の長編映画を作製したことを、今は懐かしく思い出します。

2003年に、とあるきっかけで「ばんえつ物語号」の撮影紀行に行く機会ができ、それ以来、再度鉄人撮影紀行に没頭する羽目となり、若き日の撮影紀行のことが昨日のことのように思い出され、いい歳の今でも、気だけはは当時のつもりで、鉄人撮影紀行を続けています。

それにしても、今の撮影機材(デジカメ・デジビデオ)は当時と違い、大変便利で機能的に成ったものだと感心しています。目下、撮りためたビデオ画像をPC編集してDVDビデオを作製しています。当時のことを考えると、夢のようなことだと思います。





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最終更新日  2006.12.28 06:15:57
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