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カテゴリ:読書
今野圓輔「怪談―民俗学の立場から」(中公文庫BIBLIO)読了。
この本の初版は1957年という事で、今から50年以上も昔の話だ。 そのため、幾分現代の視点とは異なる印象を受けざるを得なかった。 しかし、「現行の怪談を民俗学的な視点から考察する」という事を意図したのは今野が最初であるという。 学校の怪談研究を手がける常光徹のように、今でこそ怪談・都市伝説の類の研究は行われるようになっているが、つまりはその先鞭をつけたのが今野という事になるのだろう。 これといった確固たる実体の無い、素朴な信仰がまず初めに在る。 そうした信仰に対しての人間の意識は時代とともにどんどん変遷していくが、根本的な信仰の「対象」となるもの自体は、実は案外変わっていないのかもしれない。 そうして本質それ自体は変わってないにも関わらず、人間の側の見方だけが延々と移り変わっていく。 それがいわゆる「妖怪は神の零落した姿である」という古典的な説であるし、「祀り捨てられた」という発想にもどこかで繋がっているような気がする。 まだ「対象」が信仰されている時代、そこに妖怪の発生という事象が入り込む余地は無い。 幽霊やバケモノの存在を信じている人はほとんど居ないが、死後の魂の存在を漠然としながらも信じている人は、この本の執筆された当時には(そして恐らくは現代も)そこそこ多かったようだ。 元々の霊魂に対する「信仰」自体は、この本の執筆年代の時点でかなり薄れており、既に怪談や娯楽の内部にかなりの位置を占めていた。 ただ、「信仰」が消えてもその存在認識が完全に消え去っている訳ではなく、心のどこかでは「居るのかもしれない」という事を意識しているのか。 零落した神が妖怪になるというのなら、幽霊は神に成り切れなかった魂なのだろうか。 「迷って出る」「生前の因縁」というのは、前者が仏教的で後者はより古い発想に基づいている気がする。 もしかしたら、神道的な観念と仏教が浸透した後の観念ではだいぶ異なっている部分があるのかもしれない。 死後の魂は道の行き着く所、極端に高い山ではなく、すぐに行き来のできる里近い清浄な場所に向かうと信じられていたというのも、仏教的な価値観とは違うものを感じさせる。 ……何が言いたいんだか自分でも解らないのだが、いずれにせよ全部理解したとは言い難いので、後で読み返そうと思う…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.06.22 18:09:15
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