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tartaros  ―タルタロス―

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読書

2010.01.30
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カテゴリ:読書
「東方儚月抄 Cage in Lunatic Runagate.」を読んだ。
 神主ことZUN氏本人が執筆した、公式外伝のさらに外伝的小説である。ちなみに、今回音楽CDは付属いたしません。

 一応、漫画作品である「儚月抄」本編の補完という位置づけなので、概要だけでも知っておいた方がよりお話を楽しめるのは間違いない。
 ストーリー自体は……何と言うか、そもそも紫の企図した第二次月面戦争自体が、かつて月に敗北した際の個人的意趣返しでしかないため、はっきり言ってしまえば派手さには欠ける。本作を評して「小説版と言うよりファンブック」というものがあったのも頷ける内容では、ある。しかしながら、いつものゲーム本編での派手な弾幕勝負そのものも、根っこの部分は「女子供の遊び」である。
 明確に儀礼化したホモ・ルーデンス的な決闘が前提になっている、どこかのほほんとした牧歌的な物語なので(原作者本人が執筆しているので当然と言えば当然だが)、東方の世界観に忠実に則っているとも言える。
 やはりラストでは宴会を開いて酒を飲みながらアレコレと総括しているので、やはり、これは幻想郷を織りなす幻想郷の一部なのだ。

 なお、「永夜抄」以降、音沙汰のまるで無かった慧音と妹紅のエピソードが収録されているのもまた良し。後者は仇敵たる輝夜に対して良い具合にツンデレしている。


 また所々で神主の思想的なものも窺い知れるという気もする。
 公式設定に拠れば、蓬莱山輝夜が地上に追放されたのは、蓬莱の薬を飲んで不老不死となった=魂が穢れたためだとされている。
 本作で語られるところによると、月の住人達は長い生存が限りなく確実に保障されているため、生存闘争そのものに興味を持っていない。日々適当に働いて、暇なときは碁でも打っているのが理想的な生活なのだそうだ。
 しかしながら、『彼ら』の言う穢れとは、すなわち彼らの本来において持ち得ない観念――つまり、生への執着であるという事が推測される。
 月人の価値観に拠れば、生とは他者を蹴落とす競争である。
 その結果として現れる敗者の死を糧にして生は継続されるのであるが、死の誕生によって、また穢れも生まれるのである。つまり、生を永続させることの可能な月人にとって、短命ゆえに他者の死を喰わねば生きられない生物の支配する地球は、生存そのものが死と穢れを産み出す土地なのである。
 月人たちが地上を穢土と呼ぶのはそれに由来するという。

 が、輝夜は永遠の命を保証する蓬莱の薬を口にした。
 本来、生への欲求は地上の生物しか持ち得ない観念だ。であるにもかかわらず、輝夜は生命の永続を促すものをその身に取り込んだ。すなわち、生への執着と見なされ魂は穢れた。結果的に、輝夜は地上に住まう幻想郷の一員たる道を選ぶ訳だが、おそらく『欠乏』を克服したのであろう月人の中にあっては、動機はどうあれ飢渇に基づく行動を起こした蓬莱山輝夜は確実な“異形”であったことは想像に難くない。

 輝夜が月での生活に退屈を覚えて追放さるべく罪を犯したように、著者の語るロマンとは、等しく欠乏の救済という面があるのではないだろうか?
 あとがきによれば、現実の人間が幻想郷にロマンを感じているように、幻想郷の住人は、外界の科学技術に基づいた文化に対してロマンを感じているという。「神隠し」という現象は大正時代あたりまでは東京でも当たり前に事実として受け止められ、高度経済成長を境に狐に化かされたという怪異譚は消滅していったともいわれる。幻想であれ科学であれ、ロマンの追求とは、内なる精神に根差した未だ見ぬ世界への欠乏を、好奇の手が満たす行為であるとも考えられる。
 であるならば、幻想郷内部の常識に依拠した形で、神の力を借りてロケットを飛ばし、月の住人と一悶着を起こして来る霊夢たちは、やはりロマンではなく現状で知り得る最先端の力の行使を為したに過ぎない。

 かつて科学技術は不可能を可能にする手段であり、薔薇色の未来を約束する夢のようなものだと思われてきた時代があった。
 しかし、実際は兵器の発達によって戦争の悲惨さが増し、公害や環境汚染で地球そのものの命脈も危ういと言われるようになっている。神秘を捨てた結果として選びとった、科学という新たに欠乏を回避するための手段は、決して万能ではないという事実が露呈してしまったのである。

 近代以前に放棄してきた幻想という可能性を現代人が夢見るように、幻想郷の住人たちもまた、別世界の観念たる科学を夢見ている。そのどちらも欠乏を好奇心で満たすための手段であるのなら、幻想郷という架空の世界と現実の世界とは、ロマンという点で意外と似通っている部分があるのかもしれない。






Last updated  2010.01.30 22:38:56
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2010.01.13
カテゴリ:読書
 小松和彦「神隠しと日本人」(角川ソフィア文庫)を読了。 
 

 昨年末、ちょっと松島まで電車に乗って行ってきた。
 休憩をしようと思って駅の椅子に座ったのだが、俺の居た場所の真正面には掲示板が設置してあり、今後に催される予定の行事や指名手配犯の情報などがいくつか貼り付けられていた。
 その中の一つに、「小学二年生の女の子が行方不明になっている」というものがあった。
 今となっては細かい部分は失念してしまったけれど、どうやらキャンプの最中に忽然と姿を消し、未だに見つかってはいないそうだ。

 本書「神隠しと日本人」によれば、日本国内での行方不明事件の発生件数は、警察が認知しているだけでも万単位に上るのだという。我々が日々平穏に、極めて呑気に、あるいはあくせくと生きているうちに、“ここではない、どこか”に消えてしまった人々は、想像以上に多いのだろう。けれども“ここではない、どこか”――すなわち広義の『異界』『他界』と呼ぶ事のできるいずこかの空間――に消えると言っても、『神隠し』という思考方法が未だ当たり前に信じられていた時代と、合理性の推進された現代社会とでは大きな隔たりが確かに存している。
 祖母は子供時分、
「遅くまで外で遊んでいると、人攫いにさらわれてサーカスに売られる」
 などと親に戒められたそうである。
 この戒告がまだ根強く残っていた時代は、すなわち定住せざる者は異界よりの使いであり、彼らの旅する先こそが異界であったのだろう。それは、あるいは畸形児を売り物にした見世物小屋の住人たちであり、固定されたはずの日常から剥離するささやかなりし恐怖を、どこか他人事として、娯楽という次元にまで落としこむことが可能な時代であったわけだ。
 そんな、アウトサイダーじみた排他的思考を持ち出すまでもなく、ある場所に固定化された日常から、突如として人間が消え去ってしまったことを、古人は確かに『神隠し』と称していた。
 神隠された“彼ら”は結局、帰ったり帰らなかったり、あるいは死体となって発見されたりしたようだが、共通しているのは、居なくなってしまった者に対しての『異界からの介在』という要素が混じり込んでいるという点ではないだろうか。天狗であり、山の神であり、山人であり、山姥であり……多様に言い伝えられてはいるけれど、それらの大概はただの人間には如何ともし難い超自然の産物であり、彼らに囚われるというのは、多く、彼らが本来の住居としている“ここではない、どこか”、すなわち異界を構成する住人の一人と見なされるのに他ならない。イザナギが、死したる妻のイザナミを取り戻すべく黄泉の国へと赴くも、既に妻の肉体は腐り果て、死の世界の住人と化していた。女神デメテルの娘・ペルセフォネは、冥界の支配者・ハデスによって死の世界に連れ去られ、そこでザクロを食べたために生者の世界に完全な復帰を果たす事ができなくなる。
 もっと判り易い例を挙げてみる。
 竜宮城より帰還した浦島太郎だったが、故郷から離れているうちに数百年が経過しており、親しかった人たちも、自分の元居た住居でさえも、何もかもが消滅していた。彼をとりまいてているのは、海底に存在する竜宮城なる異界の時間である。一時的にせよ、そこに存在した=神隠された浦島太郎は、既に異界の論理に囚われていたのである。
「神隠しにあうということは、失踪者が異界に去るということであった。そして、そこに留まるということは、失踪者が異界の住人になるということでもあった。失踪が長ければ長いほど、失踪者は異界の『モノ』の属性を帯びることになる。」(p33)のである。
 再び元の日常へと帰って来ることのできた者たちは良い。
 けれど、帰って来なかった者は、もう二度と共同体の人々が会うこと叶わない。
 すなわち、神隠されたまま帰還せぬ者たちは、そのまま異界の住人となったというように解釈され得るのであり、つまり、それは――ひとつの『死』を意味する事でさえ、ある。古い時代の葬送とは、死者のための儀礼であるというよりも、むしろ生者のための儀礼とも言うべき側面が存在している。日常に侵入した死なる不測の事態である非日常に区切りをつけ、また翌日から当たり前の生活を手にするために営まれるべき祭儀だったのである。かつて信じられていた神隠しという思考の方法は、いわば死者なき葬送であるのかもしれない。唐突に喪われてしまったであろう行方不明者の存在は、確かに共同体において発生した恐るべき非日常だ。現実的に考えれば、家出・事故・恋人との駆け落ち……など、いくらでも原因は考えられる。しかし、共同体に侵入した異界を振り払うためには、彼らの失踪や蒸発を超自然的現象の仕業と考えてしまった方が、遥かにやり易い。
 言うなれば『神隠し』という解釈は、共同体内部における行方不明者へと、緩やかな死を与えるための葬送だったのである。
「『神隠しにあったのだ』という言葉は、失踪事件を向う側の世界=異界へと放り捨てることである。それは、民族社会の人びとにとって、残された家人にとって、あるいは失踪者にとって幸せなことだったのだろうか、それとも不幸なことだったのだろうか。」(p115)。
 現代よりも村落共同体としての結びつきが顕著だった時代には、互いに顔見知りである村内からの逸脱は、きっと忌まれていたのではないだろうか。どこの誰が居なくなっても騒擾となる狭く閉じた世界だからこそ、神隠しというシステムは機能し得る。それは、まだ葬送が地域社会の営みだった時代の産物であるのに違いない。
「神隠し信仰は消え去ってしまった。このために、現代社会における失踪事件は、ほとんどすべて人間世界の内部に原因と結果が求められることになった。『神隠し』のヴェールを剥ぎ取った失踪事件は、むき出しの愛と欲に彩られた人間世界の出来事のクライマックスの一つとして描き出されるものといっていいだろう。」(p203)
 石と鉄で造られた大都市が誕生し、全国から地縁も血縁も無い人々が続々と集まって、モザイク的な様相を帯びた社会こそが、現代であろう。もはやその地においては、死の知らせを受け取るのは共同体よりも家族、社会よりも個人と考えた方がちょうどいいのではないだろうか。そして、『異界』もまた、我々人間が知り得る範囲でのみ存続している。
 今でも、人は居なくなる。
 何の前触れも無しに、ある日突然、「たしかに、失踪者は日常生活の“向こう側”に消えてしまったといっていいだろう。しかしながら、現代人にとっての“向う側”は、家族や知人にとっての向こう側、つまり彼らの知らない、見えない世界ではあっても、そこもやはり人間の世界の内部なのである。そこは神々の領域としての“向う側”ではないのだ。」(p204)。
 
 神隠しという見立てが未だ許されていた時代、それは社会的な死であり、緩やかな死であり、そして何より甘やかな死の形であった。見えぬが故に、異界での安息を祈る一抹の希望であった。
 異界が顕界と地続きになり明確に可視化されてしまった現代の方が、実は、行方不明者の悲劇を受け容れるうえでは、鵺の如き不可解な不気味さに覆われているのかもしれない。






Last updated  2010.01.13 23:24:00
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2009.12.14
カテゴリ:読書
新井円侍「シュガーダーク 埋められた闇と少女」(角川スニーカー文庫)を読んだ。


「涼宮ハルヒの憂鬱」以来、6年ぶりの大賞受賞作ということで読んでみたが、なるほど面白いと思った。話の舞台がごく狭い領域に限定されている割には、上手い事まとまっている。
 ただ、各所で評されているように、流行の潮流を左右する程の魅力があるかと訊かれれば「?」だなあ……と。
 
 たとえば「ブギーポップは笑わない」がヒットしてからというもの、それまで異世界ファンタジーが主流だったラノベに現代劇という一ジャンルが誕生したと言われるが、あるいはそのように斬新な基軸と言うものは、本作には無いと言わざるを得ない。


 強いて他と違う点を探してみるなら、主人公の職業を墓掘り人夫という地味なものに据えたところとか……? しかし、「シュガーダーク」にはラノベに多く特有の爽快感みたいなものは乏しく、むしろ暗い場所から明るい所へようやく這い出たかのような、湿り気を帯びたささやかな情動がある。こうした物語の傾向が、たくさんの読者の感情に(また感傷に)訴え得るものかどうかは知らないが、これだけをもってしてラノベ界のメインストリームに成り得るか否かは未知数だ。というか、ある意味で本作はその試金石か? 散々「ハルヒ以来の大賞受賞!」って宣伝されてますし。


 しかしながら、昨今、おそらく商業的な事情からやたらと萌え主体のラノベが氾濫している現状を鑑みると、こうした作品でもむしろ(個人的には)大きな充足みたいなものを感じるね、俺は。


 
 巻末の著者あとがきによれば、既に続刊の刊行が決定しているらしいのであるが、一巻の時点で十分にお話としては完結していると思うのだけどね。これ以上続けるのはヘタをすると蛇足に成りかねないとも考えてしまった。無理に続きを出すくらいであれば、一巻の密度をもっと高くすべきですらある。
 が、やはり回収し損ねた伏線が残っているのだし、色々な大人の事情も絡んでいるのであろうとも思う。世の中ってままならないわー。






Last updated  2009.12.14 22:41:30
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2009.10.30
カテゴリ:読書
 カミュの戯曲「カリギュラ」を読んだ。

 
 物凄く適当に要約するなら、中二病の皇帝が人生の意義を見出そうと悪戦苦闘する話――では、ないか。さすがに。


 難解な物語だと思うが、巻末に付された解説を手掛かりに考えるなら、主題は人の生きることにおいての不条理なのだろう。その不条理とは、「人生に意味は無い」という、虚無的なものになる。
 主人公であるローマ帝国皇帝カリギュラは、実在の人物である。
 帝国臣民を殺し、財産を奪い、近親相カンや不義密通を楽しみとし、自らを神とさえ称した末に……最後は、彼の傲慢さを疎んだ親衛隊の裏切りにあって暗殺された。

 さて、戯曲においての彼は、ひどく孤独な「闘い」を世界に向かって挑もうとしている。
 むろん、彼は上述の如く悪行を重ねに重ねて最後には暗殺される。それは不変である。しかし、彼が求めたのは個人だけの歓楽でなく、人が生きることにおいての意義を、放埓な残虐さの中から見出すことだった。
 カリギュラ帝は実妹であり愛人でもあったドリュジラの死をきっかけにして、天空に掛かる月を地上にもたらそうとする。この世界に生きるのはあまりに虚しい。だから、そうした幻にさえ人間はすがらねばならないのだという。彼は、真の苦しみとは苦悩の永続性が存在しないという事実に気付く事だと唱える。故にそこに意味は無く、「真実など存在しないのが真実」なのである。
 虚無を見、虚無に相対したカリギュラは、やはり史実同様、家臣に裏切られて殺される。他者が目を逸らすもの、無意識のうちに折り合いをつけているものにあえて立ち向かった皇帝は、もはやその酷薄な行為のために暴君以外のなにものでもなかったから。
 けれども真実の不在ということを抉るような悲痛から飲み込んで、世界に知らしめようとしたカリギュラは、剣を自らの身体に浴びせかけられもなお確かに「俺はまだ生きている!」と絶叫したように、明白に『存在』しているのである。
 人の一生は、真実の不在を飲み込んで『存在』することしか許容されないのである。
 それこそが本作「カリギュラ」の主題であり、痛切さから目を逸らし、そのために人間の意義について苦悩する者に向けた、“狂った”皇帝の思想だったのではないか、と、思う。

 






Last updated  2009.10.30 22:38:34
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2009.10.20
カテゴリ:読書
 ソフォクレスの有名なギリシャ悲劇「オイディプス王」を読了した。


 アポロン神の神託によって『父を殺し、母を娶る』という呪われた宿命の下に産まれた青年・オイディプス。彼は一度は捨てられ生家から離れるも、旅の途中に出会った無礼な老人を実父とは知らずに諍いを起こし、激昂して殺害する。
 旅の果てに赴いたテーバイ市で、難解な問題に答えられぬ者を喰い殺す怪物スフィンクスを退治した後、人民に請われてテーバイ王となる――というのが本編が始まるまでの過程である。
 物語は、先王の死により寡婦となった王女を実母と知らずに娶り、しかし後にオイディプス治下のテーバイに悪疫が流行するという不幸に見舞われるという場面から始まる。

 はじめオイディプスは悪疫を退治すべく、アポロンの神託を仰ぐ。その結果としてもたらされたのは、

「テーバイに不幸が起こっているのは、父を殺して母を娶った悪人が居るからだ」

 という事実だった。
 激怒したオイディプスは、すぐさまそのような悪人を探し出すよう命ずる。むろん、自分自身がその張本人であるとは知らずに、である。


 ……基本的に、ギリシャ人は人間の一生に訪れる運命を「神によって定められた逃れ難いもの」と解釈していた様子がある。「我々人間が何をしても、運命女神おひとかたに負けてしまう」という言葉の出典が何だったかは忘れてしまったのだが、かのトロイ戦争もまた神の思惑の元にパリスがヘレネを略奪した事により始まった。
 オイディプスは自身に降りかかる悲運を必死に否定しつつも、最終的には現実に屈して自らの両眼を何度も潰し、王位すら捨てて進んでテーバイから去って行った。
 それもまた宿命論のような思想に支えられたものであるのだろうけれど、徹底的なまでの不条理に支えられた彼らの世界観は、見るだに悲哀に満ち溢れて目を背けたくなるほどである。
 
 だが、あえて忍従の道を選ばねばならぬような彼の姿は、高潔である。はじめから卑屈に全てを受け容れるのではなく、勇気を鼓舞しながらも虚しく敗残した者のみが抱き得る哀しい忍従を、盲となった王は背負っているのである。



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Last updated  2009.10.20 22:57:24
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2009.10.19
カテゴリ:読書
 ゲーテ「若きウェルテルの悩み」(竹山道雄訳・岩波文庫)読了。

 作者曰く、「もし生涯に『ウェルテル』が自分のために書かれたと感じるような時期がないなら、その人は不幸だ」そうだが、俺は別に自分のために書かれたようには感じなかったので、どうやら不幸な人間らしい。

 それはともかくとして、これは非常によくできた小説だ。

 親友の婚約者に恋慕する悩み多きウェルテル青年が、苦悩の果てにピストル自殺を遂げるまでの物語である。著者たるゲーテの失恋体験が色濃く反映されていると言われており、もはや病的なまでにロッテ(つまり、主人公の片思いの相手だ)への恋情を燃やす様は、何か一つに専心し続けるものしか持ち得ない熱情の化身であろう。
 さらに特筆すべきは、ときおり挿入される情景描写の細密さと美麗さであるかもしれない。人間の想像力が、自然の風景をここまで文字に表現し得るかと読んでいて感嘆せざるを得なかった。

 ところで、自殺するまで何かに苦悩するというのはひとえに若者である故なのだろうか。死を眼前にするほど何かに身を焦がした経験の無い人間としては、ウェルテルの思考は理解し難い部分がある。けれども、常に自分自身を新たにし続けなければならないのが若さとすれば、ウェルテルの失恋は古い世界が完全に破壊され、かつ修復不可能なほどの甚だしい苦痛にほかならなかったのかもしれないのだ。
 この作品がヨーロッパで大ブームになった当時、青年がウェルテルを真似てピストル自殺するという事例が相次いだらしいが、何か崩壊寸前の自己の認識にさらなる確証を与えてしまうものが、この小説には蔵されているのかもしれない。

 少なくとも、哲学的煩悶であれ恋の悩みであれ、弾を込めるべきピストルも、飛びこむべき華厳の滝も、見出せないまま大人になる人間の方が遥かに多いのだとは思うけれど……。



 
 






Last updated  2009.10.19 22:51:27
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2009.10.05
カテゴリ:読書
 アナトール・フランス「シルヴェストル・ボナールの罪」(伊吹武彦訳・岩波文庫)を読んだ。
 主人公であるところの老学士院会員、シルヴェストル・ボナール氏は、駄目なインテリの割と典型というか、頭でっかちで世間知らずの所を持った、少々子供じみた人物であるように思える。
 
 ボナール老人の日記という体裁で進行するこの作品には随所に古典文学や哲学書が行われ、一種、衒学の様相さえ呈しているのだけれどもそれを以てしても彼の精神的に未熟な側面が垣間見られるのが面白いところだろう。
 それの何が悪いという訳でもないのだけれど、彼が行う自分自身の理屈に従っての振る舞いは、何だかどことなく苛立たせられるものがある。

 見識豊かな人物であるはずのボナール氏の子供じみた振る舞いは、彼の持つ教養と比較すると一見して不自然な組合せのようにも思えるが、けれども、実は意外と違和感が無い事に気が付くのである。
 つまり、彼の持つ知識とは彼自身の内なる精神を見つめる事に他ならない。それは人間の心を富ませるが、しかし眼を外部に転ずる事が必ずしも上手くはない。ボナール氏は、決して人付き合いの下手な方とは思えないのだが、それでも自分の目的を最優先し続けて、他人から自分勝手にも取られかねないような行動に出ているのは、つまるところが老境に至ってなお、ある種の未熟さが抜け切れてはいないという事ではないだろうか。
 内向きの知識と外部を見据える目と、両方の調和が欠けた人物を描写する事は下手をすれば単なる社会不適合者に成りかねないが、しかしあえてそれ行うのは、そのどちらに偏り過ぎても人間は成熟できないとでもいう所なのだろうか……人間は何かを得るために何かを捨てねばならぬ時があるのだと思わせられる。

 物語終盤において、ボナール氏が後見人を努めた少女と、また彼の教え子の青年は結婚する。ボナール氏が二人の幸福を神に祈って物語は幕を下ろすが、これによってようやく彼の精神は成熟へと到達したのかもしれない。






Last updated  2009.10.05 23:09:23
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2009.08.14
カテゴリ:読書
明日の高速道路教習があまりにも嫌過ぎる。
 よりにもよってUターンラッシュのこの時期にブチ当たってしまうんだものなあ……。
 いくら教科書で確認しても本物は勝手が違うし、事故らなけりゃ良いんだが。
 
 無事に教習を終了して生還したら、たぶん明日の今頃に更新されるんじゃないでしょうか。何にも音沙汰が無かったら、死出の旅に発ったという事で、ひとつ…………。






 ザミャーチン「われら」(川端香悪里訳・岩波文庫)読了。

 国家の思惑と個人の自由意志の相克というのはいつの時代も常に存在する苦悩かもしれないが、本作のような明確なディストピア的世界観の中ではより一層の悲劇性を獲得する。
 かの名作「1984年」などでも見られるように、ディストピア小説では全体主義的で個人の権利が圧迫されている。それは「ユートピア」という概念自体を明確に定義化したトマス・モアの段階で既にそうである。つまり国家に属するという事は、まず己の住まう国家に奉仕するという義務を無条件に課されているという事でもある。「われら」のような物語は、その一点を特別に推し進めて描いているのである。
 さて、そこで個人を国家の真の成員たらしめるものとは?
 個人がその国家に属するという事を疑問に思わぬようにすればよいのである。
 一般的には愛国心や、国家そのものが解体されえない強固なものであるという幻想に起因すると考えられるそれは、本作における「単一国」のような全体主義的な共同体では支配体制そのものに疑問を抱かないような政策が特に重んじられるだろう。
 かくて秦の始皇帝が焚書坑儒にて儒者を穴埋めにして儒学の書物を焼き捨てたが如くに、愚民化政策が行われる事になる。「華氏451度」「1984年」などでも描かれてきた仮定であるが、国民がそもそも疑念を抱かない(抱けない)ようにしてしまえば反逆の芽を摘む事は容易いし(そもそも生えてすらこないようにしているのだが)、国家と個人の相克という事態も発生する事は無いはずなのである。
 この総体と単体との対立は、時として想像も出来ないような苦痛を人間の精神に発生させるようだ。国家に限らず、組織に属するというのは個人を抹殺してひたすら全体に奉仕し続ける事で真の「幸福」が得られるとも解釈できる。そして、それは「単一国」を統治する最高指導者「恩人」の思想でもある。
 「恩人」が遂行した、人間の“想像力”を剥奪する一種のロボトミー手術は、そのまま人間の権利そのものを切り取るロボトミーでもあるのだろう。
 共同体の全体性への奉仕というのは、社会性の動物である人間の義務である。けれども“われら”が全体の成員であると同時に、何人にも侵し難い個人としての存在を有するという天与の権利を自覚するその時にこそ、国家と個人の相克という悲劇の端緒は誕生する。
 人間が人間である限り、時代によって趨勢こそ度々変化すれど、この対立は決して決着を見る事はあるまいと思う。





 

 ……最近、カタい本ばっかり読んできたので、次は「化物語」でも読んでみようかい。
 久し振りのラノベである。






Last updated  2009.08.14 23:15:45
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2009.08.06
カテゴリ:読書
 カレル・チャペック「ロボット R.U.R」(千野栄一訳・岩波文庫)を読了。






 「ロボット」という概念を初めてこの世界に誕生させた、記念碑的SF戯曲である。
 
 我々現代人はロボットというと精密機械を組み合わせて開発されたものを想像してしまいがちであるが、本作に登場するロボットは、むしろ「人造人間」を想起させる設定となっている。この「robot」という単語は、著者であるチャペックの兄がチェコ語で「労働」を意味する「robota」の末尾の「a」を取り除いて創作した造語であるとされており、語源そのものを見ても解るように、この戯曲におけるロボットは、労働という人間的行為と密接に関わる存在として登場する。
 元来が人間の労働を肩代わりする代替的存在として創造されたロボットであるが、技術による労働の他階級への転嫁というのは、史上、見られない出来事ではないだろうか。未だ奴隷制が維持されていた古い時代においては、略奪や戦争によって人を狩り集め、意図的に労働者階級に叩き落してから働かせるという社会構造が存在していたわけである。そこに特別の科学技術というものはあまり関係が無いはずで、「上」と「下」に分かたれる悲劇だけが存在している。
 人間を人間たらしめる要因の一つは、単純な生物学的生存および自己保存のためだけに生きるのではなく、生存を容易にする行為の延長線上に、直接的には生きるための生産と結びつかない文化の創造性があるのではないかと思う。いわば、労働とその結果によってもたらされる余剰財産の取捨選択が人間の特徴の一つではないかと見なすことができる。余剰財産の獲得こそが、人間の創造性を発揮させるための前提条件であると考えるならば、奴隷制によって富み栄える社会の「上」に属する人々はその文化を爛漫と繁栄に導く事が可能である。ただ、爛熟した文明とは腐敗と紙一重であり、それが崩壊するときは社会そのものが崩壊し、決して人間そのものが崩壊するのではなかった。それは高度化した社会や歴史という概念自体が人間によって定義付けられた思考方法だからであって、そこに技術の反乱という規格外の災難は発生し得なかったからだ。
 歴史における技術の発達というのはその多くが「不可能を可能にする事」であって、「代替を開発する事」に当てはまるのは少数である。本戯曲におけるロボットの量産化はまさしく後者としての意味での史上の革命であり、純然たる技術のみによって確立された、人間を全く用いる事の無い奴隷制度である。そこにおいては、人類は食事でさえもロボットに料理を口まで運ばせ、自らの手をいっさい動かす事が無いと言われるほどの安楽さを手に入れるに至っている。世の中の労働もその全てがロボットが行い、人間の労働者は存在しない。
 だが、奇妙な事に、人類全体の出生率が低下を始める。
 まるで堕落した人間に対して天が罰を与えたかのように、である。
 そうして、やがてある高性能なロボットに率いられた反乱が勃発し、人間はただ一人の老人を除いては滅亡してしまう。だが、ロボットたちもまた自分たちを製造する技法を知らなかったために、滅亡への道を歩み始めるのだ。
 終盤の展開で何より特徴的なのは、反乱を起こして人類を滅亡に至らしめたロボットたち自身が「人間より優れている」ことを自覚しながら、結局は人間のように栄える事が叶わなかったという点であろう。彼らの考える人間との優劣は、労働や生産という社会を維持するための第一義的なものでしかなく、その結果として生じる財産をいかにして活用していくかという「創造性」の点では遥かに人間という生き物に劣っていた。
 すなわち、ロボットの量産化で労働を忘れた人間も、作るばかりで創る事を知らなかったロボットも、ヒトとしての条件を満たし得なかったという皮肉な結末を迎えることになったのであった。
 人間は労働の生き物であり、誰かが安全と繁栄を享受するためには常に別の誰かが働かねばならない。エデンの園のアダムとイヴでさえ、神という庇護者のはたらきによって平穏を手に入れる事ができたのだ。
 安楽椅子に座り続けるには、その椅子を製造する職人の存在が必要不可欠である。けれども座る者が居なければ椅子を造る意味が無くなってしまう。人間という種はこの二者の並存によって成り立っているのであり、どちらが欠けても人間ではなくなってしまうとは、言えないだろうか。
 






Last updated  2009.08.06 22:25:04
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2009.08.01
カテゴリ:読書

 何でこのブログに宮内庁からアクセスが……!?

 アクセス解析を見ると、色んなプロバイダ・企業・教育機関からアクセスが来てるというのがよく解るけれど、これらのアクセスというのは、本当にそのブログを見たいと思ってやって来ているのであろうか。検索したらたまたま引っかかったというアクセスも相当な数に上るのではないかと思われるが(流行りモノに関する記事を書くとアクセスが増えるという現象からもそれが窺える)、実のところ、あるブログなりサイトなりのいわゆる「常連」さんは訪問者数全体の何割くらいなのだろう? むろん、それはモノによってかなり変動するのだろうけれども、知ったら知ったでショックを受けてしまいそうだ。

 楽天のアクセス記録の精度がもっと高ければ助かるのだが……。






以下、7月の読書まとめ↓



7月の読書メーター
読んだ本の数:8冊
読んだページ数:2572ページ




人間であること (岩波新書)人間であること (岩波新書)
ヒトを動物より隔て、ヒトたらしめている要素は何か、脳の研究を通しての解説。多様な視点からの解釈を試みてはいるけれども、最終的な結論をある一点に定式化し過ぎではないかとも思ってしまった。論点をヒトの持つ「脳」の機能、動物とは違うところに絞っているので当然だけど。
読了日:07月23日 著者:時実 利彦




アナバシス―敵中横断6000キロ (岩波文庫)アナバシス―敵中横断6000キロ (岩波文庫)
傭兵たちの脱出行。とかくアウトローな荒くれ者のイメージが強い「傭兵」という職業だが、移動する国家と呼ばれるが如くギリシャ的な民主制を保って行動する様は、後年のドイツ傭兵(ランツクネヒト)を思い起こさせるものがある。傭兵は売春婦と共に世界最古の職業と言われるが、もともと社会機構から弾き出されて生きざるを得なかったという視点からはある程度の隔たりがあるように感じる。とはいえ、それは彼らがギリシャ的な市民軍と同様であったという事ではないとも思うが。
読了日:07月21日 著者:クセノポン




廃墟チェルノブイリ Revelations of Chernobyl廃墟チェルノブイリ Revelations of Chernobyl
かつて人の生き死にが繰り返されたであろう一都市を覆い尽くした悲劇の爪痕。人々の営みの絶えた文字通りの廃墟と化したそこは、植物が生い茂る地となっている。単に人跡が消え去っているというのではなく、滅亡したソ連や共産主義という思想そのものの残滓を掬い上げるかのような、象徴的な哀切と怖気を感じる、不思議な光景である。
読了日:07月15日 著者:中筋 純




愚行録 (創元推理文庫)愚行録 (創元推理文庫)
人は皆、多面的だ。美の裏は醜で逆もまた然り。完璧に見えた輝かしい家庭の裏と、それが築かれるまでの過程でいったい何があったのか。「世界観」という言葉が文字通りに「世界の観方」であるように、すべての人は自分自身という身勝手な愚かさのフィルターを通してしか眼前の事象を語れないのだ。そして、その全ては精神の中で正当化され得る。誰が悪いのでもない。全てがただ穢れているのである。
読了日:07月15日 著者:貫井 徳郎




推定少女 (角川文庫)推定少女 (角川文庫)
ラノベ版の時(2,3年前?)に一度読んだのだが、改めて読むとまた別種の感銘を受けた。人は誰しも戦場を駆け抜けるが、「15歳」の戦場はたった一度きりしかない。逃げ出せないことがよく解っているからこそ、脱走兵と化した彼女たちにとっては何よりも意味があるのだ。行方不明になった「お兄ちゃん」と戦場に復帰したカナという対比は、敗残兵かそうでないかという、少しばかり残酷な現実のメタファーにも見える。
読了日:07月15日 著者:桜庭 一樹




本当の戦争の話をしよう (文春文庫)本当の戦争の話をしよう (文春文庫)
何かを「語る」ということ。ただ「語る」ということ。我々は何かを見る時、その中にとかく様々な形で物語を目にしようとする。けれども、それはもしかしたら粉飾されたもので、結局のところ、実相を求めてはいない。初めから悲劇である事を望んでいるのかもしれない。悲惨な死というのは確かに悲劇であるけれども、「語る」という行為とそこにあるであろうものを無条件的に悲劇へと組み替えるのは何か違うように思う。我々に許されるのは、兵士たちが悲劇と認めた記憶を受け取ることだけだ。
読了日:07月11日 著者:ティム・オブライエン,村上 春樹,Tim O'Brien




死の家の記録 (新潮文庫)死の家の記録 (新潮文庫)
著者の収監体験を元にした作品。外界からほとんど隔絶された牢獄内部での生活の様子は、まさに「活写」と呼ぶに相応しい情景である。危機的状況に瀕した人間の群れの中であっても信頼と喜びを見つけ、自己の信念を再構成していく体験は、外界では絶対に無い格別の神秘体験かもしれない。殺人の末に大地に跪いて許しを乞うた「罪と罰」のラスコーリニコフにも通じる姿が、この作品には存在しているように思う。
読了日:07月10日 著者:ドストエフスキー,工藤 精一郎




病牀六尺 (岩波文庫)病牀六尺 (岩波文庫)
六尺という病牀が、病を得た子規には広すぎる。けれど彼の精神はそれをも遥か飛び越えて、あらゆる物を見据えながら文筆を行い続ける。同じ著者の個人的手記である「仰臥漫録」と比べると、公的に発表すべく執筆された文章であるためか悲壮感あまり無いように思った。「仰臥漫録」が死と病の苦痛に怯える陰の世界だとすると、本書は苦界にあってもなお旺盛な好奇心を保ち続けた陽の属性に裏付けられた、俳人・文学者としての正岡子規像であろう。
読了日:07月01日 著者:正岡 子規




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Last updated  2009.08.01 22:14:10
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