再読:「黒体と量子猫」
「黒体と量子猫1/2 ワンダフルな物理史[古典篇/現代篇]」(ジェニファー・ウーレット、ハヤカワ文庫NF)を再読。再読なので以下引用のみ。光は格別にはかない存在で、慢性的な自己認識の危機(アイデンティティ・クライシス)に悩んでいる。科学者は何世紀も、光が粒子なのか波なのか議論を交わしてきた。なんということか、現代の水準でいえば、光を集めて物体を明瞭に拡大するという能力の面で、これらの荒っぽい原型もレンズ豆と大差ないのだ。ある人気のバンパーステッカーには、この概念に引っかけてこんな文句が書いてある。「このステッカーが青く見えるなら、スピードの出し過ぎです!」「第一法則によれば、きみは勝てない。第二法則によれば、引き分けにもできない。」しかし技術は本質的に善でも悪でもない。それは技術の使い方次第だ。自然は構造を機能に適合させる、つまり目的に合った個性を持つ。「不安定な粒子は時とともに崩壊した。しかし宇宙の構造はわたしたちがもはや見ることのできない粒子や力をすべて、”覚えている”」(マイケル・ターナー)この2冊で、今年20冊目(261ページ/累計8126ページ)21冊目(270ページ/累計8396ページ)を読了。