読書感想 後半 「 100年前の女の子 」
前半の続き・・「3:100年前の女の子 船曳由美著」は2009年に100歳になった、作者の母親が語った子供時代の話を娘が本にした実話である。昔の日本女性の話と言うと、「女性の社会的地位の低さ」「結婚したら夫に従え。夫が死んだら子に従え」「姑の嫁いびり」「長男に嫁いだ女性の苦しみ」といった面白くないものが多いので見ないようにしているが、この本からはそのようなものは感じられない。本に描かれる高松村の人々に悪い人間がいないのだ。読んでいて辛かっただろうと思ったのは、主人公が5歳の時に里子に出されてからの2年間くらいか。作者の母親である主人公・寺崎テイは、母親の実家で生まれたが、母親は嫁ぎ先に戻ることはなかった。やがて夫の家がテイを引き取り、ヤスおばあさん(江戸時代生まれ)が面倒を見た。テイの父が再婚することになったが、再婚相手の「イワ」の実家から、イワとの間に生まれた子供を跡継ぎにし、テイを里子に出すことが嫁がせる条件だと言われた。イワは5歳の時に 、高松村から遠く離れた「おカクおっかさん」の家にもらわれた。子供がいない家で、いかついおカクおっかさんとやさしいじいさま、気が弱いおとっつあんの3人で暮らしていた。ヤスおばあさんはテイとの別れをひどく悲しんだ。里子にもらわれた家は、田畑も少ない百姓の家で、叩かれたりはされなかったものの、テイは朝から晩まで働かされた。あまりお風呂や着替えに気を使ってもらえなかったようだ。テイは新しいおっかさんにいつまでもなじめずにいた。高松村に帰りたい、ヤスおばあさんに会いたいと思い続けた。7歳になった時、寺崎のおとっつあんが様子を見に来た際、テイが寂しい思いでいるのを見て連れ戻した方がいいと考えた。もうじき小学校に上がる頃、おカクおっかさんが寺崎の家にまとまったお金を要求してきたため、いよいよテイを引き取ることにした。妻の実家は反対したが、男子がいない家の長女は、たとえ何があっても他家に籍は移せないという法律に助けられて高松の家に戻ることが出来た。おとっつあんの妻「イワおっかさん」の3人目の子供は男の子だったが死産し、娘しかいなかったのだ。寺崎家に戻ったテイはイワおっかさんに気を使いつつも生き返った魚のように楽しく過ごした。イワおっかさんの実家がいい顔をしなかったとはいえ、誰もテイに意地悪する者はいなかった。腹違いの妹たちと変わりなく育ててもらった。春、7歳になったテイは小学校に通い、初めて読み書きを習った。戦前の小学校というと、戦時中の先端に刀が付いた銃で敵に見立てたものを一突きにしたり、大日本帝国万歳、欲しがりません勝つまでは、鉢巻、モンペ、上着に名前と血液型の書いた布を縫い付けて・・・の世界とごちゃまぜになっていたが、テイが過ごした時代の小学校は楽しい場所だった。小学校では年に1回、高根山のツツジを見に遠足に出かけた。この日家では白米のおにぎりを持たせてくれ、道中、全員におせんべいや飴などのおやつが配られた。6年生の秋に東京へ修学旅行に行った。品川の旅館で生まれて初めて海を見た。翌朝日本橋三越を見学、石造りの豪華な建物に驚き、中の吹き抜けや華やかな鯛の飾り物に龍宮城の世界を見た。館内で記念撮影の後、修学旅行生用の「特別食堂」に行くとお弁当が出る。ふたを開けると俵型に並んだ白いごはんと卵焼き、お魚を焼いたものなど、めったに食べられない美味しいものが入っていて一人占めすることが出来た。テーブルの上にはお土産が用意されていて、巾着のような袋に姉様人形が入っていた。その後浅草で観音様を拝んでから高松村に帰る。テイや子供たちにとって忘れられない思い出になった。今見ても楽しそうだ。小学校が最後の学びになる子がまだまだ多かった時代、一生の思い出になるような内容を先生たちが一生懸命考えていたのだろう。今の学校の先生は、修学旅行に対してどのように考えているのだろう。私は人間関係がうまく行かなかったので、学校内の出来事に関しては幼稚園から大学まで楽しい思い出がほとんど無い。当然記憶に残る好きな先生というのもいない。残念だ。当時の農家では1年を通して多くの仕事があった。毎年淡々と繰り返され、大変だが合間に楽しいことも沢山あった。皆が神様に敬意を払い、豊かな実りを感謝した。5月の茶摘み、井戸替え(井戸の底をさらう)、田植え、絹織物用の蚕の世話、学校帰りに友達とイナゴを取って、持ち帰ったイナゴを炒めて味付けし皆で食べる、田の草取り、お盆、お月見とお彼岸、栗の山分け、十日夜(トオカンヤ※子供たちが親に作ってもらった藁鉄砲で村中の家の庭先を叩くとその勢いで大根が土の上から青首を出すので抜くのが楽になると言われている)、稲の刈り入れ、コウシン様(無事稲刈りが終わりました、これで年を越せますと感謝しながら新米を食べたりして宴をする)、家のすす払いと餅つき、家じゅうの神様に鏡餅のお供え、お正月の準備(門松・しめ縄作り、祝箸)、初風呂、ぼんぼ焼き(お正月様が山に帰る日。正月飾りを燃やす)、嫁たちの里帰り、節分、初午(馬は人間よりも神様に近い動物と言われた。この日は馬を飾りたて馬の無事息災とその年の五穀豊穣を祈願する)、雛の節句、草餅作り、花見・・・イワおっかさんは働き者だった。そんなおっかさんをヤスおばあさんは労った。テイはいつしか小学校を卒業したら女学校に進学したいと思うようになったが、言い出せないでいた。お父っつあんはテイはいずれ寺崎家を出ていかなくてはいけないのだから、女学校にやって、その後は東京で職を見つけさせようと考えていた。聞きかじりで、この時代の娘は息子と違い粗末な扱いを受けており、「女に学問はいらない」と考える家がほとんどで、上の学校に行かせてもらえなかったという認識があったが、実際は今のお父さんと変わらず、娘だろうが関係無く子供の将来のことを考えていたんだと思う。テイは学校の成績も良かったので、校長先生が寺崎の家に、女学校に上げるよう熱心に勧めた。イワおっかさんの実家は反対したが、ヤスおばあさんは、「ハタチになってから学問をしようなんて思ってももう出来ない。学校の費用は一時のことだ」と言って女学校の受験をさせてくれることになった。足利の県立学校(中学校、女学校)を受験する高松村の子供はほんの一握りだった。学校には勉強熱心な細島という先生がいて、受験する子供たちを集めて放課後の補修をしてくれた。試験の日、この日に限って寺崎家の人間は全員寝坊してしまった。細島先生が太鼓の音を鳴らして教えてくれなかったらどうなっていたか・・先生は「大丈夫だ、テイ、落ち着け。まだ間に合う、先生がいっしょに行くから。駅でちゃんと汽車にのせてやる」といって励ました。5時44分の汽車に乗り遅れたら、次は8時3分まで来ない。間に合った。汽車にさえ乗ってしまえば20分足らずで着いてしまうので、8時の試験開始まで震えながら待った。試験にみごと合格した。12歳の4月~16歳まで4年間、テイは足利の女学校に通った。卒業後、東京に出て一人で生きようと決心した。寺崎家は次女のキイが継ぐので、高松村には戻れない。ヤスおばあさんは「テイや、お前はもう、立派な一丁前だ。身ひとつでかならず生きていける。それとテイはかしこいのだから、もう少し学問をしろ、ナ・・・」と言って送り出した。東京に出たテイは池袋に住む叔父さん夫婦の家に置いてもらった。建築物の設計図を描く仕事をする為、半年間中央工手学校に通い、御成門近くの土木局で短期の図面を描く仕事をした。若者の職業難の時代だったので、1か月35円も稼げたのはありがたかった。給料からおかね叔母さんに食費と下宿代を払い、いつかどこかの学校に行くため、残りの給料を貯金した。その後、新渡戸稲造が校長を勤める「女子経済専門学校」の夜学に働きながら通った。1年後、貯めた貯金で昼間働かずに学校に通う目途がついた。卒業後、YWCAで働き、そこで夫と出会い結婚。第二次大戦中は子供を連れて高松村に疎開し、終戦後は東京に戻った。夫は職を転々とした末、最後は福島県商工信用組合に単身赴任で勤めていたが、昭和47年、62歳で突然死した。テイは5人の子供の家事と育児に追われた。けっして余裕のある生活ではなかったが、両親は全員を大学までやってくれた。新渡戸稲造は、前の五千円札の人だ。今まで「誰だろう」と思っていたが、女性が経済力を身に付けることを後押しした偉い人だ。高松村の家族のその後・・体が不自由になっていたヤスおばあさんは昭和20年の春、81歳の時に眠るように息を引き取った。イワおっかさんは最後まで世話をした。妹3人(キイ・ミツ・ミヨ)はテイが女学校にいったのだからと、館林の女学校に行かせてもらった。おとっつあんは、キイが卒業したら足利の病院で看護婦の見習いをさせて、産婆さんにし、どこかの学校の先生を婿に迎えようと考えていたが、3人の妹たちは「百姓にはヨメに行かない」ということで卒業後東京に出てきた。そしてそれぞれが将来の夫と出会い、キイは画家と結婚して東京で90過ぎまで夫婦仲睦まじく暮らした。末っ子のミヨは文化服装学院で洋裁を学び洋裁店を開いた。その後陶芸を始めた夫と益子焼の村に移り住み、平和に暮らした。最終的に、中国で働いていた夫について戦時中は中国に渡っていた真ん中の妹・ミツが帰国後、寺崎の農家を継いだ。夫は百姓仕事が出来なかったので、足利に会社を作った。現在は息子夫婦が農業を継いでいるが、96歳になったミツは今も元気である。テイは子供の頃の話を子供たちに聞かせたことが無かったが、88歳を過ぎた頃から高松村のことを話すようになった。養女に出された時も、女学校に通っていた時も、東京に上京した時も、思いは常に故郷・高松村にあった。2009年、100歳になったテイは老人ホームで介護を受けて暮らしている。作者が最後、以下のように書いている。「母の耳はもう、矢場川の清冽な流れの音しか聞いていない。母の目は、街道の入り口に立って眺めたときの、柿若葉に包まれた茅葺き屋根の、あの寺崎の家しか見えていない。その手はイナゴを捕まえ、その足は下駄をはいて学校に行く一本の道の上を歩いているのだ。百年前の女の子の魂はいま、生涯、片時も忘れることが出来なかった故郷、高松村に戻ってしまったのである。」当時の暮らしと100%真逆の生活を送っている100年後の私だが、読み終わって泣いた。ヤスおばあさん、お父っつあん、電車の運転手さん、駅員さん、学校の先生・・常にテイ達子供を見守ってくれていた高松村の大人たちはもう誰もこの世にいない。作者を通して、寺崎テイが当時の高松村の暮らし・住んでいた人達を知るための最後の語り部になりそうだ。いつかは高松村の人々の存在はこの世から忘れられ、消えていってしまうのだろうか?この本を読んで、人間の魂は最後には人生で一番楽しかった場所・時代に帰っていくのだと思った。私が年を取った時に人生で一番楽しかった時代・物として思い出すものは何だろうか?残念ながら学校でも家族の事でもないと思う。多分漫画雑誌りぼんの全盛期時代(買い始めた1988年~1991年)に掲載されていた漫画や、アニメ全盛期(1991年~1995年)の頃に見ていたものになりそうだ。