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年寄りが仏教を語るのは反則じゃなかろうか。
若い頃から壮年期まで 暴飲暴食にセックス 好き放題やった後ならば 「もはやこの人生に悔いなし」 そりゃ残るは「悟り」だけだろう。 この世の様々な煩悩を体現化し 既にそれらにも飽き尽くし (というよりそもそも身体がついていかないだろう) そうなってからなら何でも言える。 おまけに帰依という方法で好き放題時代の過去の悪事の償いもできる (ほんとは、そんなもんで償ったつもりになってもらっては困るのだが) 年寄りの仏法説教なんぞ偉くもなんとも無い。 特に 「私も若い頃には色々と無茶をしました」 なんて言葉から始まる場合は 論理矛盾・ダブルスタンダード以外の何者でもない。 釈迦が偉いとされているのは、 (個人的には釈迦が偉いとは思っていないが) 青年で まだやれることがたくさんあって、 それを可能にする身分も財も持ち合わせていながら、 あえて、それらの可能性を捨てて出家したからだ。 やることをやり尽くした果ての 年寄りの仏教への帰依とは、全く事情が異なる。 一緒にしてはならない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年07月11日 16時39分45秒
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