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カテゴリ:哲学研究室
庭は人間にとって本来バーチャルな、架空かつ実質の時空間である。
つまり庭は、おつむの中にだけ存在する、極めてフェチシチックなイデーなのだと考えてよい。 イデー(理念あるいは天上の構想)である限り、それは特有の形をもつものとして設計可能であり、現実に形作ることもできる。ただしそれを庭として認識できるのは共通文化の部分をもった人間だけであって、他の生き物には認識できない。 異なった文化をもつ者は、当然のように庭の形式も異なる。シンメトリーや幾何学文様の庭は過去の日本人の目にはグロテスクに映っただろうし、居心地も悪かっただろう。日本人にとって庭は自然の模倣でも、人間の領域主張でもなく、また自然とのふれあいでもなかった。 では、日本人の庭は、その列島の自然と、どうかかわってきたのか? 日本人は、そのように自己を定め、身構えた上での自然とのかかわり方を、一切しなかったのだ。それは常に風土と一体化していた。 日本庭園は自然を呼び込んだり、触れ合ったり、征服の意思を示したりするものではなく、むしろ自然のあるがままを背景に、人間が自然から与えられた構想力でこしらえあげた、自然の形の一つであったと考えるべきである。背後の自然の模倣ではなく、むしろフェチシチックに感情移入されてコレクションされた自然(多様な見え方)なのである。 そこにおける自然というのは、草木や木石や景観だけでなく、池や橋や園路でさえも、あるがままに見える露わなもの、つまり自然である。日本庭園と洋風庭園の扱う自然は、言葉が同じでも根本から違う物を指しているのである。 しかし庭は、その生い立ちからして、個人の所有観念と緊密に結び付けられている。 個人所有の観念の無い土地に庭は無いし、必要もない。 ただ、西洋の庭は個人がアイデンチチイを、そのユニークさを主張する時空間である。そこに集められたのは多様な自然ではなく、統一された意思のもとにひれ伏すべき自然である。端的に言うと、唯一の神に捧げられた個人の神殿のひろにわなのだ。 それに対し、日本人の庭は、個人がコレクションした多用な自然への思い入れのひろにわなのだ。神々は、庭のいたる所に宿り給う。方位にも、天空にも、地中にも、更にガーデニングの道具にさえも。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年05月28日 11時58分13秒
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