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カテゴリ:哲学研究室
境界・・・、教会、政治団体、寺院、学校、サークル、会社、公共団体、国家
その全てが、もともとは境界と同様の些細な仮想現実である。共同幻想というやつである。確か吉本隆明が似たような事を書いていた。しかも、ここにあげたこれらは、峻厳な現実として暴力を振るう。支配するバーチャルである。 「そりゃおかしい、国は仮想のものじゃなくて実体だろ?」 そういう方に対して、国家は自然の与えたもうた存在物ではなくて、人間の作った文化の囲い込みサークル活動に過ぎない、と言うことを主張したい。言わば架空の理念の集合体で出来た庭園なのである。国の境界など、壁でも作らない限り、もともと、どこにも存在しない。国土は風土に立脚することもあれば、そうでもない時も有る。同じ種族が固まっている時もあれば、そうでない場合も多い。多くの国で、国の主権は構成員である国民にあることになっているが、実体は個人権力の集合委譲による経済および暴力支配である。 それでは、まるでファッシズム。 支配するバーチャルであるサークルや組織は、権力行使局面においては、その全てがファッシズムである。わが国の民主主義は、法に基づく三権分立や選挙による間接的な民主主義を謳い文句にしているが、権力行使はファッショによる集中的権限委譲が可能にしている。民衆のいろんな意見が、そのままバラバラな権力行使となったら、それは革命とかクーデターとか無政府状態と呼ばれるのである。 一人一人の主権の象徴である小さな棒をファスケースに集め、指揮棒(ファッショ)として委譲されたローマ帝国の軍団指揮官は、配下の全兵士の生殺権を得た。言わば1票1票の権利の集中がファッシズムの語源であり、独裁官はその権限集中により支配する。根拠も無く独裁を主張するわけではない。法に基づいて権限の集中委譲を受けた共和理念の実行者がファシストなのである。 深入りしすぎるのでここで止めるが、国や自治体の権力行使は、有無を言わさぬ現実の支配である。そして、その権力行使を媒介するのは法と経済である。言わば架空の庭園に投げ出された人々が、自分達のよりよい暮らしと安全、そして経済活動のスムーズさを狙ってサークル活動を始め、その活動が逆に人々を囲い込んで、人々の個々の権利をも支配するようになったのである。 バーチャルなゲームに参加して、ついにはそのゲームに取り込まれ、その仮想現実に支配されてしまう子供と、いかほどの立場の違いがあろうか。 人間が文化として形成する仮想現実は、その多くがサークル活動である。つまり支配するバーチャルなのだ。そしてその権限委譲は民主主義の名のもとに行なわれ、ファッショとして行使される。株主は権限の委譲について反対意見を述べることができるが、配当金で篭絡されて賛成票を投じてしまったら、それで終わりなのだ。あとは独裁官である会社役員が采配をふるう。 会社組織の場合は、主権者である株主はいざとなったら株を売却して、意に染まぬ経営方針と手を切ればよい。しかし国や教会といった巨大バーチャルとなると・・・この国が嫌だから出て行くというのは簡単ではないのである。仮想現実のどの部分が、この手の、言わば引き返せないサークル活動なのか、そして深く関わっている経済活動とのからみについても、もっと冷静に注視してみる必要があるのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年07月05日 22時53分54秒
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