|
カテゴリ:哲学研究室
eidos(形)への、形の方が招く親しみ。それを仲介する未知の力がエロースである。
運命的な出会いと恋、永遠を覗き込むがごとくの瞬間の中での憧れ。それらはすべてエロースという神的な力の仕業であり、性愛の秘密の形式が招いたことである。 そして性愛というのは男女の仲だけのことではない。男同士であろうが女同士であろうが、エロースが仲介するのは、全て自然であるがゆえの結果である。あらゆる愛の形式が、生命の持つ性に関する親密さへの秘密だというのは変わらない。 親しみの愛とでもいうべきフィリアは、生命のみが隠している親愛への型枠なのである。そこに出現する媒介の力、そのもののことだと考えてもいい。 それなら、智への愛、創造活動への愛もまた、性愛的なものだと主張できそうだ。 哲学への冒涜だと言われそうで、われながらしばし躊躇したが、この推論を否定できそうな道はなかった。 智への愛といった行為は、性愛的には一種の倒錯であろう。通俗的にはフェチシズムと分類される異常性愛に極めて似ている。そしてこれはあらゆる学問や、創造活動に共通するようにも思える。 形を求めての労働ではなく、あらかじめある形が招く、逆方向のバーチャルガーデニングは、それが誘う形式への、倒錯したフェチシズム的性愛であるが故に逆方向なのであるとも考えられる。形から素材へ、そしてその構成要素への分析解明へ、倒錯した興味はフェチシテイックに誘われるのだろう。 世間的には、フェチシズムには、はしたない性愛というイメージがある。そのためだろうが、精神的なものへ昇華しただの、浄化された精神世界の、といった言い方で、このはしたない興味を高尚に言い直そうとすることが多いようだ。 実際にはエロチックな興味にこそに導かれているのに、それが倒錯した興味であることがわかっているから、それを認めたくない道徳的な心が主張するのだ。 音楽や、美術や、ほとんどの創作活動の主は、エロチックなものにこそ突き動かされている自分を良く知っているし、公言もしている事が多い。しかし実は、あらゆる学問や、とりわけ堅苦しい学問だと思われている哲学こそ、倒錯した性愛の成果なのだと言ってよい。 その倒錯した世界の代表に、プラトニックラヴという言葉がある。 これは言うまでも無く、古代ギリシャでは市民権を得ていたホモセクシュアルのことである。現代の我々のホモセクシュアルではない。ヘラクレスの後裔を自負する古代の英雄達の、精神に倒錯したホモセクシュアルのことである。 天上のイデーというのも、そこに支配する性愛、つまりフィリアを倒錯した見方で仰ぎ見るバーチャルな図式だと。つまりバーチャルガーデニングの未踏の目的なのであると、見なすことが出来る。 瞬間的な反省によって得られるその天上の図式の背景に、変身物語(メタモルフォーゼ)のドロドロした性愛の姿を越えて、時の彼方にある精神のみの純愛を見ようとするのがイデーだ。(つまり逆方向のバーチャルガーデニングの典型) そこで神の愛とも言われるアガペーの理想を持ち出そうとするのも、頷けるのである。 それは倒錯した性愛の宿命のようなものだろう。フロイト的に言うなら、これは幼児期の肛門性愛の欲望であるリピドーが見る夢、とでも言うべきものになるのだろう。 ずいぶんと、はしたない論述になったが、偉大なプラトン先生を卑しめるつもりは少しもない。しかし、いやしくも唯物論者であろうとする限り、この神の領域の愛については説明出来ないし論議も出来ない。それは生命の力が夢見る形式ではなく、単なる倒錯の性愛に終わってしまうからである。 金連花が咲いている。リンクは過去の写真。 http://www.geocities.jp/tikudenmura/engei/hana6_kinren.htm お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年07月20日 21時44分23秒
コメント(0) | コメントを書く
[哲学研究室] カテゴリの最新記事
|
|