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カテゴリ:哲学研究室
哲学や詩作が、何かの物事に出合う心のバーチャルガーデニングだとしたら、スポーツこそ、生命活動を体現する身体のバーチャルガーデニングだと言えそうだ。
あらゆるスポーツが挑戦するのは、未だ形成途上にある運動能力やその技能、経験、記録である。目先の目標はあるが、究極の目標など本人もわからない。オリンピックで金を取ったから、もうスポーツは終わりだ、などというスポーツマンは一人もいない。 スポーツは、その活動自体に意味があり、参加することにこそ意義がある。 もちろん勝利は望ましいものだが、敗れても無意味ではない。競争や優越だけがスポーツの目的ではないのだ。但し、プロにとっては勝利のみが意味を持つ。 こんなところからも、スポーツの基本はアマチュアだと言われる由縁である。プロスポーツというのは、アマチュアスポーツの、極めて特殊な一面に過ぎないのである。 スポーツは、それに参加することによって、経験や、記録が生まれる。それと同時に、自己の身体能力や、技能が培われる。 これは鬼畜ゲームをやる子供が、自己の心の一部を鬼畜化させていくのと同様のシュミレーション訓練である。生命活動としてのこころや身体が、あらかじめ持っている陶冶可能な部分があるのだ。可塑性のある、人間の自己形成能力に基づく、必然的な結果なのである。 諸々の形式による訓練や学習によって、その人の能力は磨かれる。身体とこころは一体のものとして、インスタンス可能なクラスに形成されるのである。一人前の社会人になるということは、社会人のクラスに形成されたということである。そして特に優れたプロは、その優れたクラスによりインスタンス創出された勝利を売って金を得ることが出来る。 こう考えると、スポーツにおける勝利の意味が、よくわかるはずだ。勝利というのはコピー活動のネタであって、バーチャルガーデニングの主要要素ではないのである。スポーツが、常にライバルより自己との競争だ、といい表わされる理由がそこにある。様々な文化の持つ型式にのっとって、自分の身体のクラス(型枠)を高めるバーチャルガーデニングが、スポーツなのである。 写真はツンベルギアの種とツボミ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年07月23日 22時01分38秒
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