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カテゴリ:哲学研究室
最近何かと問題になる軍隊である。これは言うまでも無く、典型的なサークル活動であり、支配するバーチャルである。そして特に、軍隊はファッショ的暴力行使組織である。
集団の権力委譲組織である以上、個人の全ては軍隊では無視される。場合によっては集団の構成員に、苦しんで死ぬことも強要する。 命じられた者には理不尽な命令でも、敵前逃亡は死刑と相場が決まっている。命令に逆らうと反逆罪で死刑、いずれにせよ死ぬしかない。軍隊は死の恐怖の組織なのである。 そしてこの恐怖で固められた鉄壁が、軍隊を強くする。上官に逆らっても生き長らえるような軍隊では、「またも負けたか○○連隊」ということになる。(旧日本軍にも、連戦連敗の部隊があったと言われる。逆に、弘前や久留米の部隊は強いことで有名だった) 米国の海兵隊も強いことで有名だが、民主主義を唱える米国でも、軍隊には一切民主主義は無い。米軍は、がっちりと恐怖で固めた上下組織であり、理不尽な死を平気で命令する組織でもある。原爆の最初の1発の実験では、爆心地まで部隊を突撃させての人体実験までやっている。(今でも劣化ウラン弾を平気で使っている) ロシア軍も日本軍も、被弾して沈没寸前の巡洋艦の乗員救助に駆逐艦を差し向けて戦力低下を招いた。だが、米軍は作戦中に、そんな無駄な行動は一切やらない。米軍は更に、敵地にパラシュート着水した艦載航空兵を救助するために、カタリナ飛行艇を何機も失ったり、駆逐艦を失うような危険まで平気で冒した。だが、日本軍では航空兵一人の命と引き換えに、数百人もの兵士の命が危険に晒されるような、理不尽な作戦が命じられることは決してなかった。 米国の海兵隊では、今でもその強固な伝統維持のために、訓練中でも兵士は平然と殺される。上官が伏せろと命令したときに、目の前にガラガラヘビがいたとしても、そこにスズメバチの巣があったとしても、命令は絶対である。逆らえば掃射機銃で射殺されるし、従がっても死ぬのである。訓練中でも、兵士に人権などない。 この恐怖を媒介とする軍隊組織の一部の高級将校が、自分の基礎を見失った時、悲劇の誕生の幕があく。 自分の役割は戦争して相手を殺し、もしくは殺されて死ぬことだけだ、ということを忘れ、バーチャルな他の領域に踏み込んだときである。 日本の昭和史は、この軍隊が独自外交を始め、独自の国づくりを推進し、独自の政府を作って動き始めた、いわばバーチャルなガーデニングの、とんでもない物語だった。これは実は、天皇という「実体の無い統帥権」と無縁ではない。 外地にあって、本土の脆弱な日本軍以上の軍集団組織となっていた関東軍は、統帥権をたてに、本土の小さな帝国の何倍もあるような満州帝国を作り上げた。そして更に多くの領土を中国から切り取る算段をしていた。帝国の政府も、本土の軍組織も、それにあわせて組織を改変して、いわば事後承認にも似た対応だったのである。 二、二六事件のときは、さすがに天皇が激怒して、自分が近衛部隊を率いて鎮圧するとまで言い出したため、結局大勢が天皇側に付き、一部の急進的な首謀者たちが死んで事なきをえたのだが、この頃は関東軍だけでなく、朝鮮軍も日本軍も、内蒙古軍も、ほとんどがバーチャルな領域をさ迷っていたふしがある。彼らの意見は、軍全体の意見を代弁しかけていたのである。 そして無責任な日和見主義の高官だけが生き残った。彼らはろくな準備も出来ていない軍隊が、世界相手の戦争を始めるのを止めるどころか、バンザイ自殺突撃や特攻まで強要したのである。 それは軍組織の一部の人だけの責任ではない。貧しい小国の国民すべてが、同じ貧しい装備の軍隊に無理な希望を託し、資源の豊かな大きな国土を夢見るという妄想に導いていったのだ。つまり当時の日本人のほとんどが、内戦と軍閥割拠の続く、豊かな資源のある中国を侵食し、帝国の領域に取り込むことを熱烈に支持していたのは否定できない。この反省も、国民の側からはなされていない。 統帥権を持つ昭和天皇は、代々国民の総意を読み取ることで、世界のどの国も生み出し得なかったあらゆる階層の権威となってきた。天皇個人は反戦の意見でありながら、国民の総意が世界との戦争もやむなしという判断に動いているとき、それに逆らってまで反戦の意志を通せなかった。天皇家の存続が、大勢の国民の破滅より大事だったのであると考えるしかない。 天皇は国民の生活の唯一の支点であり、軍事や政治の統帥者であったのに、その仲介者のように振る舞い、敗戦の時も、米軍が進駐してきてからも、身命を賭して仲介者として振る舞った。昭和天皇は、やはり自分を神だと思っていたのであろう。米国も、この現人神を殺すことが起こす混乱に、責任を取りたくなかったのだろうと思えるふしがある。 かくして天皇個人の責任も、その本来の任務も、ともにうやむやにされた。 しかし今あらためて、諸々のサークル活動の中で、唯一バーチャルガーデニングが任務であった、かけがえの無い立場を、陛下は十分に理解していなかったのでは、と思えるのである。自分の庭を掘るような遊び半分の立場ではない。あらゆるサークル活動を仲介できる、かけがえのない支点としての立場をである。 熱帯産のカラフルな葉っぱは、暑さに弱いようだ。息も絶え絶え、色も悪い。 これで家を包囲しようという計画は、あっさりぽしゃった。 http://www.geocities.jp/tikudenmura/engei/engei1611/colouful.html お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年08月18日 21時52分01秒
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