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2005年08月26日
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カテゴリ:哲学研究室
 繰り返しになるが、バーチャルリアリテイーというのは、すでに自然ではない現実を反省して言う、体験の物語である。
 ガーデニングがなされ、庭に姿を替えた現実は、すでに自然とは呼ばれない。その庭は、人間の身体の外部に創られたこころとして、それも自然とは異なる囲い込まれた文化の集積として示されている、リアリテイーなのである。
 英国人の好きなカントリーガーデンでさえも、庭にあるのは人間のリアルな営みである。そこに囲い込まれたものも、対象として数量的に把握できる素材としてのネイチャーであって、自然ではないのだ。

 しかし庭は、西洋人のそんな思いとは裏腹に振る舞う。
 囲い込まれ、造形された後も、曖昧な部分を残したままだ。民族や、言語や、諸文化などとともに、本来曖昧な部分を持ったままの、概念の代表のような物に留まるのである。
 というのも、庭はいつでも詩的であり、四季の移ろいに支配されるだけでなく、生命の思いもよらぬ変容(メタモルフォーゼ)に満ちている。庭の道具立てや構成要素そのものが、単なる素材ではない。何がしかのバーチャルが、そこに残っていることを告げ知らせてしまう性格を持っている。つまり対象とはなり得ない自然が、そこここの随所に、いくばくか、ありうるのだ。装飾の繰り返しの中にさえ、それは宿る。

 リアリテイという言葉を付加しないで、単にバーチャルという言葉を使えば、それは、まさに、仮想のそのことを指し示す。未だ現実とも言いがたい現実野を、である。
 西洋では主語述語の無い形容詞だけが品詞として一人歩きすることはないのだろうが、あえてバーチャルリアリテイーから主語も述語も取って、膠着語のようにしてしまったら、あいまいな現実が浮き上がってくる、ということである。
 ゲーム世界の、電脳上にのみ存在する、仮想のしかし実質の時空間。それは実質の空間でありながら、実は私という個人の内部にのみある、現実の、あいまいな反省である。
 コンピューターを覗き込んでも、そんな隙間などありやしない。それはあくまで、こころの外部の形として仮置きされたものでありながら、私のこころを繋ぎ止めて離さない実質かつ現実の、変容が支配するバーチャル空間なのである。

 そこにいる仲介者は、存在者の存在としての神ではなくて、単なる変容である。
 あえて言うなら自然の神々が見せる力なのだ。神々そのものは、リアルに姿を見せることは無い。リアルに存在する西洋の神とは、全く違う次元の存在なのである。(存在というより、むしろ空というべきかも知れない。)
 それは私のこころが直面している原初的な衝撃でもある。そしてこれこそが、実は対象とならなかった類いの変容の力、言い換えると「自然」なのだ。
 私達が対象を見据える中に見出したり、仕立てたりするものではなくて、先方から勝手にやってくる原初の力なのである。

 コンピュータの内部にも、勝手に向こう任せで宿る、この自然の発露、それがバーチャルなのである。もともと定義できるような明晰判明な世界のものではない。
 これまで述べてきたバーチャルというのは、そもそも、この世界の全てが、もともとそこにある世界だと言って良い。あいまいで、詩的で、遊興的で、中途半端な、非現実的な基礎世界なのである。アナログ的な発想だけが観ることの出来る隠喩や変容の世界である。バーチャルには、本来、リアリテイ(現実)は所属していないのだ。それを私達がバーチャルとして名指す時に、やってくる時間なのだ。
 人間の自覚がサークル活動を始め、バーチャルガーデニングという行為を促がす。そして仮のリアリテイが出現するのだ。それは贋金でもある。
 言わば、私が生まれ、私が活動の基礎を見出す。そしてこの基礎を見出す行為の中に、現実認識も、また生まれるのであろう。現実という、テンポラルな時間が生まれるのだとも考えることが出来る。それは贋金かもしれないが、仲介力を持つ神々の力でもある。
 それらを総称して、私達日本人は「自然」と呼ぶ。私達人間も、もともと所属する原初の世界である。

 現実は自然の対象化の中で見出される実像だが、対象化されない自然が常に残る。庭という自然、人間のこころという自然が、まさにその代表である。
 西洋風の発想の中では伝統的に拒絶されてきた世界であるが、いまや世界はあいまい性や、不確定性まで論議し始めたし、イエスノーだけの世界ではなくなってきている。イエス、ノー、そして中間までがごっちゃになったバーチャルな世界への扉が、いたるところで開き始めているのである。
 そして人間こそ、最もバーチャルなしろ者だと言う事がいずれ理解される日が、じきに来るのだろう。人間もまた、自分のこころを持つ限り、庭と同様、十全には対象化できない、あいまいで茫漠とした自然に属するのである。対象化されえない自然にである。

今年は姫コリウスが旺盛に成育中。昨年は絶滅寸前だったが。
http://www.geocities.jp/tikudenmura/engei/himecol1.html





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最終更新日  2005年08月26日 22時17分02秒
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