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カテゴリ:哲学研究室
植物の栽培場であるガーデンは自然を呼び込む庭(擬似サークル)だが、他の多くのコレクション類のうち、生き物を対象としないコレクション、例えば切手アルバムを考えて見よう。これは自然を呼び込まないので庭やガーデンとは呼べないものだろうか。
いや、決してそんなことはない。 アルバムに整理された切手のコレクションは立派な擬似サークルであるし、仲介者の力を呼び込む栽培場でもあるのだ。 飾られたコレクションによって呼び込まれるのは価値の力、つまりお金の力である。しかも単なる仲介者として姿をあらわしたお金ではない。希少価値、値打ち、射幸心、どう表現していいのかわからないバーチャルな価値をこそ呼び込む。つまり仲介者であるお金というものの初源の力をこそ、呼び込むのである。 目新しいコレクションは立派な創作でもあるし、これまで組み合わされなかったオリジナルとして耳目を引く。新しい価値を産み、それを煽ることだってある。そして時の移ろいとともにやがて散逸し、朽ちて去っていく。 フェラーリ伯爵のコレクションはもとより、小島コレクションも、ペプロウコレクションも、ワイズブレムコレクションも過去のものである。 しかし切手は人造物である。生育も変容もないではないか。 とんでもないと申し上げたい。切手のコレクターなら知っていること。生育も変容もふんだんにある。それどころか、アルバムはまさにその生育と変容のためにある。だいいちアルバム自体が、コレクターのガーデニング行為によって日々変貌を遂げていく。植物体ほどには激しく変貌しないだけで、紙もインクも自然素材だし、興味のテーマも、評価や人気や美の基準すら日進月歩でバーチャルな領域へ移行していく。 切手のアルバムは自然の営みを呼び込むためのガーデンではなく、バーチャルな領域の価値を栽培し呼び込むためのガーデン(擬似サークル=似輪)なのである。これを伝統的に庭と呼ばないのは、これまで人々が庭の本質を擬似サークルだとして把握できていなかったからに他ならない。 しかしバーチャルガーデニングであるコレクションの全ては、実はこの擬似サークル形成に負うものであり、庭の形成なのだと言う事が出来そうである。切手のアルバムはコレクターのまさにこころであり、何者にも替えがたい庭園なのだ。 異国の地イギリスで、生活保護を受けながら細々と暮らしていた高名なコレクターの話で締めくくろう。 ポーランド軍の元士官であったオーガード・コレイヴォ氏は、大戦で祖国が敗北して分割された時、イギリスに亡命したが、婚約者は祖国で亡くなり、彼は二度と国には帰らなかった。 彼の終世の伴侶は、なぜか日本切手だったのである。 自分の眼力と知識と細々とした収入だけを頼りに、彼は日本切手の大コレクターとなっていたと言われる。 彼の庭園は、確かに一流の品物ばかりとは言えなかったようだが、コレクターの世界では有名だったようで、死後、庭園は分割されて、最も高値が予想される日本で競売された。金井オークションでの売り上げは億単位に登ったはずである。 小生も何点か、安い品を受け継いでいる。写真は、俗に和桜青一と呼ばれる品々である。 「震災の大阪目打ち」など、まとまった品もあるので、いずれ公開したいと考えている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年09月03日 15時32分49秒
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