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カテゴリ:哲学研究室
以前にも述べたと思うが、ホームページというのはサーバー上に置かれたバーチャルな個人庭園であり、文化サロンである。
これをどうしてHPと呼ぶようになったのかは知らないが、アメリカ人にとって適切な意味を持つ言葉であったとしても、日本人には全く意味不明な言葉である。 にもかかわらず、HPがそのまま、直訳もせずに意訳もせずに使われたのは、なぜだろう。 導入した人々に、言葉を吟味できる詩人が含まれていなかったのかもしれないし、物事の本質を考える哲学的な能力が無かったのかもしれない。 いや、まったく逆で、彼らがHPというものの持つバーチャルな性格を察知し、あえてそれをバーチャルな言葉のままに仮置きしたかったのかも知れない。たぶん、これが真相であろう。彼らは英語に堪能なので、英語に直面すると、つい英語で考えてしまう。日本人が英語で考える能力を持たないことを、すっかり忘れてしまうことだってある。 ホームは日本では普通、家庭の意味で「家」と訳される。庭を持った家族の家である。内向きの、振り返って眺め、そこに逃げ込むものである。お膝元、政治家の地盤である。 英語では全く違っていて、まず「家」という入れ物のことである。家庭、家族という意味を持つが、それは二義的なものである。対外交流の場である「サロン」や「ホームパーテイ」の場の方が主役なのである。庭という意味はほとんどなくて、郷里や発祥地、本元、そして自作のといった意味となる。 これは外向きの「情報の発信源」という意味なのである。実に吟味された言葉なのだ。 日本で家庭は、普通、閉鎖された親族だけの閉鎖サークルを言う。庭がはぐくむ物はファミリイの共有する時間であって、普通は外部の人のものではない。むしろ個々人の隠されたこころの拠り所、といった意味に近いものとなる。シャイが染み付いている日本人には、日本語でのホームの意味は、全く理解できない、通れない道となるのである。 ページはどうだろう。 これは「記録」、「書物」、「出来事」、「挿話」、といった意味である。ページをめくるバーチャルな「ページ」の意味でも使われるが、同時に「小姓」、「近習」、「騎士」、「見習い」、「給仕」といった意味もある。 つまりHPのバーチャルな力は、ホームの方ではなくて、ページの方に考えられているのである。しかし日本人にとって、ページは具体的に言うと能面のような、書物に一般的なもので、それをめくるという「バーチャルガーデニング」の意味はあっても「バーチャル」な意味は無い。日本語で言うページは「記録」や「出来事」といったバーチャルな意味を全く持っていないのである。ましてや「自らを鍛え、準備しながら公共に奉仕提供する騎士」の意味は全く無い。 ホームページという言葉を日本語で考えると、いかに浅薄な、理解出来ない物となってしまうのか、あなたにも理解できるだろう。 これではいけない。当然である。HPの意味自体が、全く理解されないまま浅薄な言葉となって、文化サークルとなって力を振るっているのである。言わば「愚鈍化番組」のようなものである。 我々は自分達の持つ文化の基準に照らして、それに相応しい言葉を与えなければならない。特に情報文化や電脳技術に携わってきた専門の人たちの罪は重いと言えるだろう。 写真は今が盛りの潅木の花。名前がわかんないのでバーチャル界の物となる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年09月21日 18時45分59秒
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